恐竜のようなフォームで街を歩いてはあらゆるものを飲み込み、そして吐き出す。脱毛サロンのスタッフとして客の毛を抜いては、その後で「結局生えてくるけどね」と呟いてみせる。死ぬまで終わらない生活のサイクルと、そこからの逸脱を試みるが故の破壊行為。カナ(河合優実)の視点を通して描かれる現代の都市生活においては、あらゆる物事が同時にものすごい速度で並走し続けているのだということが作品冒頭の喫茶店でのやり取りの中でさっそく提示される。あっちの感情からこっちの感情へ、あの男からこの男へ、というような調子でカナはとにかく忙しい、というよりはあえて忙しくしているような側面もある。かと思えば、一人きりの自室でふと10数秒くらいの間ボーッと立ち尽くした後で急に部屋に散らかったモノをゴミ袋に投げ入れまくったりもする(というのは実際自分もやったことがあるので個人的に妙な生々しさを感じたりもした。脳みそがいらないもので詰まって窮屈になってくるような、少なくとも自分はそういった感覚から逃れるためにモノを捨てまくった)。本当に必要なものをちゃんと探しているつもりなのに、ほとんどのものが実は特に必要ではなかったことを後になって知るという、Amazonなどにおいて日常的に買い物を行う現代人であれば誰もがどこかで気づいているけれど知らないフリをしているような虚しさについての描写が多く、それは肌を突き刺すようなリアリティを伴っている。脱毛サロンでの仕事中に「冷たくなりまーす」というフレーズを機械的に繰り返しながらレーザーで女性客の毛を処理し続けるカナと、その痛みに顔を歪ませる女性の描写が象徴的でもある。
そんなカナの生活において唯一静けさを感じさせてくれる、スマホでナミブ砂漠の様子をライブ配信し続けている動画を寝転がりながら見ている描写は本編において何度か差し挟まれる。最初は単に彼女にとっての安らぎを得るための癒し映像みたいなものなのだろうか、という印象をフワッと覚える程度なのだけれど、先述したような出口の見えない都市生活のループ構造のようなイメージ、それから物語が進むにつれて徐々に仄めかされ始めるカナのこれまでの日々、そしてルーツを踏まえると一見呑気な砂漠の映像がまるでどこか遠い別の惑星の様子を映しているようなものにすら思えてくると同時に、胸がキュッと苦しくもなる。カナのスマホに映し出される映像にはこの砂漠と、あともうひとつ映し出されるものがある。スマホなのだから、あらゆる映像をそこに映し出すことも可能ではあるだろうに、ハッキリと観客に見えるように映し出されるのは、おそらくそのふたつだけなのだ。
社会から、そして自分自身からも逸脱するための運動を繰り返し続けた果てに、ひとつの素朴な地点へとゆっくり着地していくような構成が個人的にとても好みだった。カナのような恋愛の仕方は知らないし、彼女のような(というか彼女を演じる河合優実のような)格好良さも自分にはないけれど、そんな遠い存在と最後のその着地点において同じ視点に立てたような、すごく「分かる」といった気持ちが溢れ出すような喜びを鑑賞後の帰り道でひとり、噛み締めていた。