「関心領域」鑑賞後メモ

youtu.be

 そこには、拍子抜けするほどに「普通の生活」があるだけだった。明らかに不穏な事態が進行しているであろうことが確かな音の響きはあるのだけれど、基本的に今作の軸に据えられているのは労働と生活というサイクルによって駆動するひとつの家庭の風景だ。

 作品冒頭の数分間は真っ暗な画面が映し出され続け、ミカ・レヴィによる劇伴が流れ続ける。穏やかな時間の経過とそこにするりと忍び込む仄かな不穏さのイメージとが溶け合う瞬間を音像化しているような印象を伴うこのサウンドに半ば強制的に意識を集中させられるような演出が始めに配置されることによって、目に映る景色から読み取れる物語と、見えることはない(けれど確かに見えてもいる)サウンドによって喚起されるイメージとが並行して進行し続けるような作品構造が観客側の意識に無言のうちに植え付けられていくような印象を受けた。イメージを植え付ける、もしくはそれを内面化させるというそれらの点においてのみ今作は異様にアグレッシブな側面を持ち合わせているようにも思えるのは、やはりこれがナチスドイツやショア(ホロコースト)を描いている作品であるからであろうし、セリフとして語られる部分ではないものの最も恐ろしさを感じさせるところではあるだろう。それこそが、人それぞれの「関心領域」の違いを生み出すキーにはなっているのだから。

 目に映るものをインプットして、自分自身の意識の中で「現実」として構築していく過程は映画の構造とも相性がいいように思える。それに関して、今作では部屋という空間を意識させる演出が多くあり、例えば、序盤の方では夫人のヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒュラー)が口紅を持って自室の化粧台に座る場面では、ドアを閉めて飼い犬の侵入を拒む描写があったり、夫のルドルフ・ヘスクリスティアン・フリーデル)が真夜中に自宅に帰宅した際、仕事用の道具は物置へ、眠らずに起きていた娘は彼女の寝室へ抱っこして連れていく、というような描写がある。つまりは、あらゆる事柄に仕切りを設けることで人間は混沌としたこの世界の状況を整理しながら「現実」というそれぞれが持つヴィジョンを受け入れやすい形に編集しているのではないか、と。それを語るためのアナロジーとしてそういった部屋に関しての演出が施されているように思えた。

 網膜(フィルム)に焼かれる映像と、それをカットして繋ぎ合わせることで紡ぎ出されるそれぞれのリアリティ。では、切り捨てられた曖昧さはどこに宿るのか、それはなかったことになるのだろうか。それに対しての答えは、モクモクと浮かび上がる白い煙というモチーフ、そして飲みすぎた酒を吐き出してからのショットの切り返しというアクション一発で酔いが醒める瞬間を鋭く突き刺してくるラストの演出が全てを物語っている。