夏樹を公園に連れていく約束をした28日の夜になった。
この日の遅番勤務の終わり際である21時頃、僕はユニットの照明を切った。キッチンの上の小さくて柔らかな照明をひとつだけつけておく。利用者さんたちの就寝介助は少し前に全て完了させたから、日中の喧騒が信じられないくらいとても静かな空間になり変わっていた。この静けさは僕を毎回安心させてくれるし、心地の良いものだった。あとは利用者さんたちの就寝状況をなんとなく気にしておきながら、パソコンに今日の勤務の記録を打ち込んでいればいいし、それが終われば夜勤の菅谷さんを待つだけだ。
菅谷さんは僕よりいくつか年上の女性でユニットリーダーだ。夜勤の間には次の月のシフト作成や書類作成をしていることが多い。そして若干ユルめな締まり具合の現場を引き継がされる。これは、僕が早番として出勤した際に菅谷さんから引き継がれるユニットの状況からなんとなく察したことだ。文句をつけにくいレベルで手が抜いてあるというカンジで、まあ、シフトを毎回作ってもらっているのだからとやかくいう資格は僕にはない。
菅谷さんはいつものように勤務開始時刻の10分くらい前にユニットに現れた。僕の方も特に問題ないまま業務をほぼ完了させていたので、少し早かったが引き継ぎ作業を行なった。
菅谷さんの正確な年齢を僕は知らないが、おそらく30代前半であることは間違いないと思う。だが、それにしては彼女は少女のように少し幼く見える顔立ちをしていた。纏っている雰囲気も柔らかくて接しやすい。僕は彼女に情熱的なものではないにしろ、ささやかな好意を抱いていた。
「…で、小田くんは今日も公園行くんだ?」と一通り引き継ぎが終わった後で菅谷さんが僕に少しからかうように聞いてきた。
「はい、そうですね。なんかもうネタになってしまいましたね」と僕。
「まあ、いいんじゃないの。優しい小田くんらしくて」と言いながら菅谷さんは軽く伸びをして、それからキッチンの食洗機の中で乾燥を終えた食器を片づけ始めた。
「少し偽善っぽいカンジに見られてるかもしれないすね。僕としては単純に仲のいい人たちに軽いお菓子持って会いに行くような感覚なんですけどね」
「ふうん。そういうこともあるんだね」と菅谷さんは柔らかいけれど半分テキトーなような調子で返した。彼女はもうすでにお仕事モードに移行してきているカンジだろうかと僕は思った。その後一言二言やりとりをして、それからお疲れ様でしたと挨拶を済ました。去り際にふと目に入った菅谷さんのスマホの背面に、深夜アニメの猫のキャラクターのステッカーが貼ってあるのが見えた。新しいのが一枚増えていた。
僕はロードバイクを手押しして、夏樹との待ち合わせ場所である施設近くの小さな公園まで少し冷たい夜風を浴びて歩いた。上に着ているマウンテンパーカーの生地がその風を弾いてカサカサと音を鳴らした。
夏樹は公園のブランコに座ってスマホの画面を見つめていた。その姿を近くの街灯が淡く照らしていて、まるで彼女だけが住むことを許された小宇宙をかたどっているように見えた。
僕は彼女が座っているブランコの側まで近づいていくがなかなか気づいてくれない。イヤホンで音楽を聴いているのかもしれないと思った。
彼女から2メートルくらい離れたところに自転車を止めると、スタンドを下ろした音で彼女がこちらに気づいてくれたので僕は小さく手を振った。彼女も座りながら軽く手をあげて応えた。
「聞こえないから気づかなかった」と夏樹はイヤホンを耳から外しながら言った。
「なに聴いてたの?」と僕は夏樹の隣のブランコに腰掛けて聞いた。
「あー、なんか適当にプレイリスト流しっぱなしにしてたから…さっきまで聴いてたのは『横顔』って曲。知ってる?」と夏樹。
「いや。というか、そんな曲名だったら割と色々な人が出してるんじゃないかな」と僕は返しながら何人かの具体的な歌手の名前を思い浮かべる事ができたが、実際のところこの時の僕はたまにしか見ることのない夏樹の私服姿にばかり意識が向いてしまっていた。ゆったりとしたサイズ感のカーキ色をしたトレーナーは下に着てあるインナーシャツの白い差し色が効いて爽やかな着こなしであるように感じられた。下に履いたスキニーの青いデニムは仕事のときに機敏に動ける彼女のスマートな印象にとてもよく合っていた。なんとなくグッときた。
あ、そういえば、と夏樹が切り出してきたので僕は急に我に返った。
「今日の4Cユニットはどうだった?」と夏樹が聞いてきた。
「ああ。今日はね、ちょっと危なかった。僕がMさんの就寝介助してる間に隣のユニットまで歩いていってて。危うく他の人の個室に入っちゃうところだったんだけどそこを工藤さんが阻止してくれたんだ。あれは助かった」と言いながら、僕は相変わらず夏樹が肩から提げているカメラバッグを仕事で少し疲れてぼんやりとした意識と共に見ていた。普段バックパックか大きめのトートバッグを使うことが多い僕には、その小さなバッグのサイズ感がなんだか不思議に思えて仕方がなかった。
えー、それヤバいねー、と夏樹は若干どうでもよさそうに返しながら夏樹は僕が見つめていたカメラバッグから慣れた手つきで加熱式タバコを取り出してそれを吸い始めた。
僕は彼女がタバコを吸う口元を見つめながら、2年ほど前に無理してタバコを2本連続で吸って気分が悪くなってしまったことを思い出した。おそらく当時はまだ思うように仕事をこなせないことも多かったから、ストレスをどうにか消化しようとして家の近所のコンビニの喫煙所でカマしてしまったのだと思う。20歳になってからタバコを吸う習慣がなくなったという妙なパラドックスを抱えていた僕は、急な喫煙によってまるで貧血を起こした直後のような全身のダルさや息苦しさに見舞われた。その後しばらく僕は自室のベッドに横になってヒーヒー唸りながらスマホで好きなバンドのライブ映像を見て、体調が回復するのを待った。この事件以来僕は現在までタバコを吸うことはなかった。タバコの匂いを想像するだけで、この時の気持ち悪さを思い出してしまうくらい脳味噌にトラウマとして焼きついてしまっていた。
「涼ちゃんはあたしがこうしてタバコ吸ってても鬱陶しくないの?」と夏樹がボソッと聞いてきた。もしかしたら顔に思い出の苦みが滲み出てしまっていたのかもしれない。もちろん、かつてタバコでバカみたいに気持ち悪くなってしまった僕としては嫌な気持ちがないわけではないが、施設に入職した当初から世話になりっ放しの身分なのでそもそも好き勝手言いづらいところがあるだけだ。そういえばもうひとつ大きな要因として、僕はこのときにもまだ夏樹の私服姿にときめいていたというのもある。我ながら凄まじい持久力のハピネスだと思う。
そういうわけで一瞬どう返そうか迷ったが、「まあ…クサい煙が必要な夜もあるわな」と少しボヤけた言葉で返すと「なんだそりゃ」と軽く笑われた。夏樹が吐き出した白い煙が暗闇に混じっていくのを僕らはブランコに座りながらしばらく眺めた。
夏樹がタバコを吸い終わった後、僕らは自転車で公園まで向かった。夏樹は自分のママチャリに乗っていた。
僕の方がスペックの高いロードバイクに乗っていたので走行速度に差が出てしまい、何度か夏樹を置き去りにしてしまった。その度に夜中に出すにはデカすぎる声で「涼ちゃーん!」と彼女が叫ぶのが後方から聞こえてきてドキッとした。一応僕なりにゆっくり目に走るように心がけてはいたが、それでもちょっとした坂道なんかで自然と距離が開いてしまい、結局何度も夏樹は大声で叫ぶハメになった。
そんなことを繰り返しているうちに目的地に着いた。
すでに夜の10時過ぎになっていたが、この公園では街灯がいくつも道に沿って等間隔に立ててあるので、僕らが通る道も明るく照らされていた。時折ジョギングをするひとやロードバイクに乗るひとたちともすれ違った。光る道の外側には大きな並木が見えた。その奥にはちょっとした遊び場や草むらの広場、さらに少し離れたところには高いフェンスに囲まれた野球場やバスケットボール用のコートにスケートパークもあったりと規模の大きい公園になっている。
しばらくそんな景観の中をゆっくり自転車を漕ぎながら進んでいると、夏樹が「ここまで来といてなんだけど、いきなりあたしが来たら嫌がられたりしないかな?」と急に弱気なふうに聞いてきたので、僕は「いや、むしろ喜ぶと思うよ。すごいフレンドリーな感じの人たちだし。みんなおじんだけど」と返した。