私の日は遠い #5

 法子は全てを破壊したい衝動にかられていた。ついさっきまではなんとか冷静さを保ちながら朝食の分の食器を洗ったり洗濯物を干したり猫砂を取り替えたりしていたが、ちょっともうダメそうなところまできてるな、と法子は感じていた。頭が変に熱を帯びてきて、神経がピリピリしてきた。

 もう駄目だ、解き放とう。法子はまずエプロンを床に投げ捨てると、ラクなTシャツと短パンに着替えた。そして左腕内側の表面を人差し指でスッとまっすぐな線を描くように撫でた。すると左手首の辺りからプラグが飛び出してきた。法子はそのプラグを夫の所有するXbox Series Xに接続した。夫はいつもこれで評判のすこぶる悪い「バトルフィールド 2042」を楽しそうにプレイしていて、正直気がしれないなと法子は考えたりしていた。だが今の彼女はそんなことは微塵も気にしていなかった。Xbox Series Xがテレビにも接続されていることを確認すると、法子はテレビの電源をつけ、画面切り替えを行い「ダイブ」していった。

 

 なんでもありの電脳世界において法子はディーンフジオカとデートしてみたり朝から飲んだくれてみたり違法薬物を接種してみたりと、すでにいくつかの派手な体験をしていた。そのため、今では一周まわって海が見える丘の上の家でのんびりしながら気が向いたときに小さめの庭で花の手入れをしたりしていた。週2で西島秀俊ベネディクト・カンバーバッチ(いつも「バッチさん」と呼んでいる)が家に来るように設定してあるため、特に退屈することもなかった。

 しかし、今日の法子は庭作業を行う気はなかった。丘の上の家には地下室があり、そこに彼女は非常時用の武器をいくつか保管していた。

 法子はガトリングガンアサルトライフル、それからフルオートのハンドガンをさっさと掴んでボストンバッグに突っ込むと、そのまま直通の通路からガレージに向かいレンジローバーに乗り込んだ。

 

 ショッピングモールには人が近寄らないように事前に設定していたため、法子は心おきなくガトリングガンであちこちのショーウインドウを粉々に破壊することを楽しんでいた。

 バリバリとガラスやマネキン、やたら高そうな衣服が破壊されていく。どうして真っ先にこの場所を破壊しようと思ったのか、彼女はよくわからなかったが、心地よさを感じているのは間違いなかった。

 近くの店を一通り破壊し終えたところで少し疲れたため、近くのベンチに座ってスポーツドリンクを飲んだ。ボトルを傾けて飲んでいるときに自然と目線が上がり、はるか上に広がるホログラムの青空が見えた。それは何も言われなければ本物と信じてしまうほど鮮明で澄み切っていた。しかし法子は自分が電脳世界にいることを自覚しているからか、その空からは温度感を感じることができなかった。アンディの部屋の壁紙みたいだなと考えていると、不意に誰かの足音が近づいていることに法子は気づく。

 「誰かしら?」

 法子は扱い慣れているアサルトライフルを手に取り、物陰に隠れた。事前に設定していた条件を外から解除されたのかもしれない。だとすると、少し厄介なやつに絡まれるかもしれないと彼女は警戒した。

 

 

 

続く

私の日は遠い #4

 達夫は千切りキャベツを食べるのに飽き始め、うんざりしていた。せめて残り少ない残金をみじん切りしたらその分お金が増えるみたいな意味わからない魔法があればいいのになとつまらないことを考えながら寝転がっていた。午後の暑さがピークを過ぎた夏の夕暮れに、達夫は退屈を燻らせていた。そして、腹が減り始めた。だがしかし、もうキャベツには飽きた。

 とりあえず外に出てみようという気持ちが達夫のなかでなんとなく湧いてきたので、彼はタオルで汗ばんだ体を一通り拭いてからTシャツを着直してサンダルを履いた。クーラーをつける余裕もないせいで部屋には熱気が充満していた。ドアを開けると達夫は熱気と共にまるで吐き出されるようにダラダラと部屋を出た。

 

 何曜日かも思い出せないまま達夫は外に出たが、近所の学校のグラウンドから野球少年たちの声が聞こえたので土曜か日曜であると思われた。

 乾いた砂利やアスファルトを見ると俺の心までカラカラになってきそうだなと達夫は考えながら近所のコンビニに向かった。まずは冷房がキンキンに効いたところに行きたい。大して買いたいものもないけれど(というか財布に余裕がないだけなのだが)適当に雑誌を立ち読みしているだけでもこの季節は体力の回復が出来るので、ある意味ではHEAVENなのであった。

 いい加減な気持ちのまま歩いているうちにコンビニに近づいてきた。そこで達夫は、入り口付近のゴミ箱の上に置きっぱなしになったエナジードリンクの缶を見つけた。まあ、ふつうの人はゴミだと思うよなと考えながらも達夫はそれなりに刺激を求めていたので、とりあえずその缶を手に持ってみた。…あれ?結構入ってる?というか、よく見るとまだその缶はフタが開封されてすらいなかった。忘れものかな?やっぱりみんなゴミだと思うから、誰にも気づかれなかったのだろうなと達夫は思いながらその缶をしげしげと見つめた。

 「空いてないなら、別に中身は汚くないよな?」

 缶の周りに不審な穴が空いてないか確認を済ますと、達夫はフタをプシュッと捻り中身をグイッと飲み干した。何故か少し冷えていたので普通に美味かった。最近はキャベツばかり食べていた達夫の身体と心に甘々なスパークルが勢いよく弾けていった。久々に意識が目覚めていくような感覚を達夫は覚えた。

 

 エナジードリンクを飲み干した達夫はコンビニの中に入り、とりあえず雑誌を立ち読みしながら涼むことにした。美味しいものを飲んでいい気分になっていたので楽しいものが読みたくなり、ジャンプを手に取った。

 達夫が知っている漫画はもうワンピースくらいしかなかったが、知らない漫画を途中から読んでもそれはそれで面白いと彼は感じていた。単純にハイになっているだけなのかもしれないが。

 主人公の体が変形しては、全てを切り刻んでいく。それは欲望や暴力の表出であまりにも禍々しいと同時に抗いようのない美しさの引力を纏ってもいる。忘れかけていた感情にオイルが注がれ、ポケットに入れっぱなしだったマッチを擦り火を放つ。光の権化となって体を蝕んでいた恐怖を焼き尽くす。暴力的な愛が誠実さを踏み躙りながら自己を充足させる。どれだけやられても構わない。いつでも死の虹が見えている。俺はそれでも目を回さない。爆破されエクスタシーはピークを迎えたと同時に急降下を始める。深海の冷たさでクールダウンする。あり得ないほど近くにある瞳に触れようとしたところで目が覚め…

 

  達夫は気がつくともうコンビニの雑誌置き場には立っていなかった。そこは大きな橋の下にある駐輪場で、上空に並んで二つ走る高架の間からは綺麗な夕日が見えた。

 制御できないレベルまでハイになってしまったのかもしれないと達夫は思った。それでももう身体は思うように動かせず、まるで意識と離れ離れになってしまったようだった。それは達夫に恐怖を覚えさせる感覚だった。生ぬるい夕風に吹かれて首筋に汗が伝う。彼は途方に暮れた。

 そんな様子で突っ立っていると、駐輪場に誰かの自転車が近づいてくる音が聞こえた。達夫は辛うじて首だけは回せそうなことに気づき、とりあえずその音がする方向を見ていた。

 自転車が駐輪場の入り口の辺りまで走ってきて、止まった。そこにいるのは見知らぬ中年男性だった。それなりに上等そうなスーツを着てシルバーのママチャリにまたがっていた。

 「迎えにきたよ」とその男がボソッと呟いた。

 「…あなた、誰ですか?」と達夫はひどく戸惑いながら尋ねる。ハイになり過ぎていたため必要以上に焦りを感じ、汗が止まらなかった。

 「そのうち分かるさ」

 男はそういうと、ママチャリに手をかざした。するとママチャリは瞬時に溶けて銀色の液体になり、男の体に吸収されていった。

 「誰も知らない夢を見に行こう」

 男は無表情のまま、そっとギャルピースの形で腕を伸ばしていた。

 

 

 

続く

私の日は遠い #3

 夏樹は油断していた。夏休みに入ってしばらく経ってから数学の課題を学校に置きっぱなしにしていたのに気づいたこと、ただ取りに行くだけだから学校までは私服で行こうかなと考えてしまったこと。そして、家でぐうたらするノリでノーブラのまま街に出てしまったこと。これらの過ちを、夏樹は午前中の普段より空いた涼しいバスの一番後ろの席に座りながら悔いていた。あのときロッカーの中をきちんと整理しておけば、そんでもって、私にある程度の気品が備わっていれば(「いや、これはまだあると信じたい」と夏樹は心の中で呟く)。

 まあ、乳首に私の全ての記憶や価値観が保管されてる訳でもないしな、と謎の方向に思考を展開しながらも夏樹はいつもより強く腕を組んでいた。こんなタイミングで誰かに会うなんてことはないのではないか、さっさとロッカーの方に向かって課題を取ってきてしまえば良いのだ、と自分がやるべきことをシンプルに整理することで落ち着こうと努めた。しかし、バスが揺れ、冷房の風がTシャツの隙間を吹き抜けていくたびに若干頼りない気持ちになることを夏樹は否めなかった。窓の外はよく晴れていた。よく日焼けした上裸のおじさんがロードバイクに乗って、備え付けたBluetoothスピーカーで80sのグリッターなポップソングを垂れ流しながら過ぎ去っていくのを夏樹は眺めていた。

 

 バスを降りるやいなや夏樹は普段よりも倍速くらいの気持ちでそそくさと歩き出した。教科書やらプリントやらでごった返した「秘密の花園」こと夏樹のロッカーのどこに課題が眠っているのかを、彼女は頭の中で繰り返しシミュレーションしていた。これはもはや気品とはかけ離れた瞬間かもしれないと夏樹はふと思ったが、あまり気にしないことにした。ゆるふわギャングのNENEみたいに、ノーブラにTシャツ一枚でも力強くあればいいじゃないか、という少し飛躍したイメージに彼女は着地してみることにした。

 やっとの思いで校舎の入り口にたどり着いた。少し奥の方にあるグラウンドからは野球部が練習する声が聞こえたり、上の階からは吹奏楽部の管楽器の音が響き渡ってきていたが、幸いなことに夏樹がいるフロアには特に誰もいないようだった。助かった、と彼女は胸を撫で下ろす。

 

 ロッカーを開けてみると案の定カオスの様相を呈していたが、無意識のうちに繰り返していたシミュレーション通りにいくつかアテになりそうなポイントをまさぐった。閉じ込められていた熱気が長方形の鉄の箱に充満していて、夏樹は少し息苦しさを感じた。早く帰りてえなという気持ちになってきたところでようやく課題を見つけた。何故かは知らないが、隼人から借りっぱなしのジャンプの間に挟まっていた。休み時間に読んでたときに、しおり代わりにしてしまっていたのかもしれない。こんなところにも私のだらしなさが息づいているのだな、と夏樹は自分に呆れた。

 とりあえず、私の大磯ロングビーチク祭が世に晒されてしまう前に帰ろう、と夏樹は校舎を出て行こうとした。すると、どこか近くのロッカーから物音が聞こえることに彼女は気づいた。

 なんだ、誰か猫でも監禁してるのか、と思いながら夏樹はなんとなく音の出どころを探した。それは割と簡単に見つけられた。おそらく隣のクラスのひとのロッカーだった。10秒くらいの間隔を空けて、ゴトンという音が鳴り続けていた。一応夏樹は取手に手をかけてみた。どうやら鍵はかかっていないようだった。

 夏樹はどうしようかと少し悩んだ。もし本当に猫やらウサギやらが監禁されてたらかわいそうだよなとか、いやそんなサイコ野郎がこんな高校にいるのかよとか色々思いを巡らす。すると不意に「おい!」という声が聞こえて夏樹は驚いた。

 急いで振り向くとそこに立っていたのは、野球のユニフォームをきた隼人だった。

 「やっぱ夏樹じゃん。何してんの?ていうか私服?」と隼人。

 あまりに急なタイミングで話しかけられたのでなんと返そうか一瞬迷ったが、脳裏にフッと「ビーチク」というフレーズが頭をよぎったので彼女はとりあえずとっさに腕を前に組んだ。

 「え、なに急に」と隼人は訳がわからないといった様子で夏樹を見ていた。

 「何って、ほら、あれよ。私はこの夏、より気高い存在になるのよ」と夏樹。

 「それはまあご立派な。あ、ていうか俺スパイク取りに来たんだった」と隼人は自分のロッカーの方に走っていった。夏樹もこのタイミングでやっと冷静さを取り戻してきた。

 「あのさあ…」と隼人がロッカー越しに夏樹に話しかける。

 「なによ?」と夏樹が返す。

 「今度、ふたりでどっか行かねえ?」と隼人が素っ気ない感じで言った。

 「え、なに急に」と夏樹。何故か少し視界が揺れた気がした。組んだ腕はもう解けていた。

 「いやー、まあ、忙しいなら別にいいんだけどさ…」と隼人。

 夏樹はさっき手をかけたサイコなロッカーが半開きになっていることになんて気づく余裕もないままに、ガラス越しに差し込む光をぼんやりと見つめていた。

 

 

 

続く

私の日は遠い #2

 「全く、今日はとんでもない一日だったわ」

 男はそう呟きながら車を発進させる。朝から降り続いていた雨は30分くらい前に止んで、車体から真っ直ぐ伸びるライトの光が濡れた路面を照らして夜の景色を彩っていた。しかし男はそんなところに繊細な感情の機微を見出すような気分ではなかった。若い男からぶっかけられてしまった小籠包の肉汁があまりに熱くて、まだ顔の皮膚の一部がヒリヒリと痛んでいた。あのあと部下たちにも説明はしてみたが、あまりよく意味がわからないといったような感じで、戸惑わせてしまった。それでも、そのうちの一人である片岡が気を利かせてコンビニで氷を買ってきてくれたのを男は密かに嬉しく思っていた。片岡はまだほとんど新人で少し緊張しいなところもあるが、真面目で誠実な人間だった。彼を採用したのは間違いではなかったと男は思いながら家路についていた。

 交差点で信号が赤になっていたので、男はブレーキを踏んで減速した。彼は何気ない気持ちで目の前の交差点に目をやっていた。すると、目の前で横断歩道を渡って行こうとする青年が片岡であることに気づいた。

 「あ、片岡じゃん」と男は思わず口に出した。信号が青に切り替わると、男は自然と片岡が歩いて行った方向に向かってハンドルを切った。

 男の車はしばらく走り、すぐに片岡の方まで追いついた。

 男は車の窓を開け、「おい、片岡〜」と声をかける。しかし片岡は声が聞こえなかったのか、男の声に反応する素振りを見せずに歩道を真っ直ぐ歩き続けていた。

 声が小さかったかなと思いながら、今度は少し大き目な声を男は出したがまたもや反応はなかった。

 どうしたものかなと思ったところで、片岡が歩く歩道の少し先にコインパーキングの入り口があるのを見つけた。男は車を加速させて先回りし、片岡の目の前に滑り込むような形で停車した。

 流石にこれなら気づくだろうということで、「おい片岡〜。お前、なんかいつの間にジジイ並みの耳の遠さになったな!」と少しからかうような調子で声をかけた。

 今度は片岡も足を止めた。が、何故か顔はずっと下の方に俯いたままで視線を男の方にあげようとはしなかった。

 男はそれを妙に思い、車のドアを開けて彼に近づいた。おい、どうしたんだと男が片岡の肩に手をかけようとしたところで突如、片岡がキッと男の方に顔を上げた。それは紛れもなく片岡のはずではあったが、表情に温度感が感じられず、まるで金属かなにかで出来たロボットのような印象を男に与えた。

 「…どうも、お疲れ様です」とおもむろに片岡は挨拶を返したが、明らかにいつもと様子が違っているのが男にはわかった。

 「お、おい。どうした?なんかあったか?」と男も少し戸惑いながら返す。

 「いえ、これといったことはなにもありはしなかったですよ。ただ…」とそこで急に片岡が口ごもる。

 「ただ、なんだ?」と男。

 「…今日もシンクロ率80%に達することは出来なかった。なんてことないヤツだとは思っていたんだが、思った以上に忠義を貫けるようだ。困ったな、オイラ」

 男はその片岡の見た目をした「なにか」が発する言葉の意味がわからず、黙って呆然としていた。すると、突然ニセ片岡がオエエーっと何かを吐き出し始めた。なんだ、酒を飲みすぎていたのかと男は一瞬変に安堵しかけたが、彼が吐き出していたのは銀色のスライム状の液体だった。男は結局さらにわけがわからなくなってしまった。

 「おまえはどんな心を持ってる?感情の彩り、バリエーションは豊かなのか?」

 そのはぐれメタルみたいな液体が声を発して語りかけてくる様を見て、男は腑抜けた意識の中、昼間の火傷のヒリヒリとした痛みがまだ顔の皮膚に残っているのを感じていた。とんでもない夜は、まだ終わらないのかもしれないと男は思った。

 

 

 

続く

私の日は遠い #1

 「これは一応あなたのために言っておきますが、質問をされてから顎に手を当てて『うーん』なんて考え込むようでは駄目なのです。印象が良くないものですよ」

男はそういうと狭いテーブルの中央に置かれた胡麻団子を素手で一個鷲掴んで口の中に放り込んだ。彼はもしゃもしゃと咀嚼しながら手についた胡麻の粒をフローリングに払い落とした。

 涼は男のそんな様子を向いの席で眺めながら、「アドバイスいただきありがとうございます!」と少し調子はずれなほどに勢いよく返した。

 さらに男は続ける。

 「いいですか。大体、こんなのよくある質問なわけですよ。それくらいは答えを用意してあって当然なのです」

 「はい」と涼は相槌をうつ。店内放送では涼が知らないジャズの楽曲が有線放送で流れていた。というかそもそも、涼はジャズにあまり詳しくはなかった。しかし、誰も大して知らないだろう、ということを前提に垂れ流されているのが有線放送のジャズだろうという認識が彼の中にはあったので、特に気にかかることはなかった。涼にとってそれより気になることがあるとすれば、彼が契約しているストリーミングサービスでは視聴することができない「FARGO」シーズン4が一体どのような内容なのだろうかということくらいであった。それくらいはあらすじか何かをネットで検索すればすぐにでもわかることではあったが、涼はあえてそれをしていなかった。もしかしたらいつか観る機会があるかもしれないと彼は常に考えていたからだ。もう少し時間的に余裕が出てきたら、アマプラも観れるようにすればいい。それが叶った日には、ついでに「THE BOYS」も…

 なんてことを頭の中で考えながら適当に男とのやりとりを続けていると、「あ、よかったらどうぞ、いつでも召し上がってください、それ」と涼の席の手前で汗をかいたように結露した水滴を纏ったアイスティーのグラスを男が手で指し示した。

 「ああ、どうも」と言いながら涼はそれを一口で半分、というか8割くらいの量をストローでぐいーっと飲んだ。

 「ミルクはよかったですか?」と男が言ったので涼はストローに口を咥えたまま首を振った。

 ストローから口を離すと、涼は手を上げてウェイターを呼び、生ビールと小籠包を注文した。それを見て男は少し驚いた様子を見せた。

 「…あなた、なかなか遠慮のない方ですね」と男は呆れた様子で返したが、涼は先ほどと同じ調子で「ありがとうございます!」と再び元気よく答えた。

 その後、男はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出してしばらくそれを眺めていたので、涼は視線を男の方から雨の街が見える窓に向けた。もう少しで正午になるような時間帯だった。この用が済んだらせっかくなので近くに見えた東京タワーに久々に行ってみようかとも一瞬彼は考えたがそれは諦めることにした。雨がそこそこの勢いで降っているから、面倒臭く感じられたのだった。

 「お待たせしました〜」という声とともにウェイターが涼の注文した生ビールと小籠包を運んできた。彼は生ビールのグラスを手で直接受け取るとその勢いのまま一気にグイッと飲み干した。ウェイターはそれを見て面食らったのか、しばらく小籠包を乗せたトレイを持った姿勢のまま静止していた。

 「それも、いただいていいですか?」と涼がいうとウェイターも我に帰ったようで、出来立ての小籠包がいくつか入った小さめの蒸篭を涼の手前に置いた。

 どうも、とウェイターに軽く礼をいうと、涼は熱々の小籠包のひとつに、さっきまでグラスに浸かっていたストローを突き刺した。男は訳がわからないといった様子でそれを呆然と眺めている。

 「本日はお時間いただき、ありがとうございました…」と涼は作り笑いと共に男に言った。しかしその直後に一気に蛇口を捻ったように彼は強い感情を表情の上に解き放ち、「これでもくらえ!」と言いながら小籠包の両サイドを手で全力でプッシュした。それにより圧縮された小籠包から溢れ出たアツアツの肉汁が涼の突き刺したストローを通して、男に目掛けて勢いよく発射された。

 「うわ〜!ばかアチい〜!」と男が席の上で悶え始めた。涼はそんな様子にはもう目もくれずに自分のバックパックを片手で掴み出し、「ゴチになります!」と絶叫しながら店を飛び出した。雨の通りを、サラリーマンやOL、制服姿の学生の群れを掻い潜りながら涼はしばらく走った。そんな調子でメトロの駅の入り口までなんとかたどり着く。何故かはわからないが、涼は久々にマクドナルドに寄ってテイクアウトしようかなという気分になり始めていた。

 

 

 

続く

「JOINT」鑑賞後メモ

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現代日本の裏社会模様って、こんな感じなんだな!!という新鮮な驚きを序盤の数十分で喰らう。

薄暗さが常にありつつも従来のヤクザ映画ではなかなか見られないであろう清潔感のある硬質なルックにも思わず見入ってしまった。劇伴もカッコいい。

出演している役者は公開時点ではまだ無名だった方がほとんどなのでとてもフレッシュな印象があり、演技の演出も重苦しくないため観ていてとても心地よかった。すごいつまらないこと言うけど、すげー面白かった。

・出てくる男たち、なんかみんなおしゃれしている。普通に街中で見かけるような顔つきの人の方が多くて生々しかった。

・この作品内でやりとりされるものは違法薬物などではなく、情報。それはほとんどITビジネスとしての様相を呈している。殴り合いや銃弾が飛び交う場面は、タイトな範囲に絞められているように感じた。

・情報や富と対になるようなものとして、主に主人公やその周りの人間たちの間の友情があるように感じられた。裏社会の模様が描かれる映画なので仁義や忠義といった言葉を用いてもいいのかもしれないが、これらを作品内で体現する役割を果たしていたのは男たちではなく、とある一人の女性登場人物であったように感じられた。

・物語の基本的なプロットや主人公がいつも来ているブラックの長いレザージャケットなど、ブライアン・デ・パルマの93年の作品である「カリートの道」からの引用がなされている。モチーフの置き換え方が面白かった。

・「ベンチャー」や「ルーター」といった単語の注釈がわざわざ差し込まれるのは、この作品が「繋がり」を描いているものであることを示すためなのではないかと思う。

そこには深い闇のような因縁やビジネス的な利害関係も含まれてはいるだろうけれど、もっと原初的でピュアな繋がりを築き、守り抜くことこそが「楽園」へ辿り着くためのパスポートになり得るのではないか。というメッセージが込められているように思った。

「X」鑑賞後メモ

youtu.be

・(主に女性の)性の解放と、年老いてしまった人たちの抑うつ的な感情とが対比して描かれる。おじいちゃん、おばあちゃんの「解放」は果たして成し遂げられるのか?その儚げな足腰は自ら放つ衝撃に耐えうるのか?

・「解放」を描くことで、映画史のしがらみからも解き放たれたいという意志が強くあるようにも感じた。

 他にも、世代が離れた人間同士が理解し合うことの難しさというか、その間に隔たることがしばしばある感情を浮き彫りにしたかったのかな?なんて思ったり。

・今作がモチーフとして扱う二本の名作映画、物語の構造、ポルノと老人ライフ、喘ぎ声と劇伴、肉体と肉体、若者と老人、そして肉体と鉄。あらゆるものが交差して、血とカオスに塗れながら、やがて新たな地平へ。

・「リコリス・ピザ」の時もそうだったけれど、こういう70年代映画をガッツリとサンプリングしている映画を劇場で観ると、まるでタイムスリップできたような気持ちになれて楽しい。これもやっぱり、現代と70年代の交差?

・「刺す」とか「打ち込む」といったようなアクションが今作の特に後半では象徴的に描かれる訳なのだけど、刺す系は俺苦手なのかもな〜と思ったり。けっこうぶった斬る系のアクションを観ることが今まで多かった気がするから。

・撮影係の女性を演じていた人が地下室であるものを発見した時の表情が変化していく瞬間がとても鮮やかだった。ひとの顔面ってあんな風にぐにゃーって歪むものなのだなと。