最近好きなアルバムをな

季節の音楽というものがある。今は夏だからサマーソングということになる。TUBEからTWICE、Calvin Harrisまでいろんなひとたちが爽やかでノレる音楽を作ってくれている。冬でもMISIAからTWICE、マライアキャリーとかが色々出している。俺は、そういう音楽をドンピシャのタイミングで聴くとなんか腑に落ちすぎてしっくりこないことがよくある気がする。そういう聴き方があまりにもふつうの行為であるから、それほど驚きも感じられないというか。

だから、逆に今のタイミングでマライアとか聴いて、どうしたってこの暑さの中では思い出せない冬の寒さに思いを馳せるのもありなんじゃないかなって。実際たまにやる、俺は。

 

さて、今回は最近お気に入りのアルバムをすごいテキトーに並べて行こうと思う。よかったら見ていって欲しい。なんの足しにもなりはしない。でも書こうと思い立った、なぜかは知らないが。

 

まず1枚目はこれ。

 

“t-mix” Tohji

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さっきみたいな文章を書いておきながら今年最もイカした夏のアルバムのひとつを最近よく聴いている。

去年リリースされたLootaやBrodinskiとの”KUUGA”とは打って変わって明るいポストEDM的なプロダクションのサウンドが聴けるけれど、音の透き通った質感や雰囲気というのは実はどちらのアルバムにも共通したバイブスなのではないだろうか。

Tohjiはビジュアルとか曲の雰囲気が、なんかいつもブシャーってしてる。潤ってる、ブシャーってしてるカンジがこの人はとにかく好きなんだなと思う。好きな飲み物もポカリスエットみたいだし。

声とかフロウの腕力もすごいけど、リリックはいつも執拗に「リビドー」というか「交わること」についてしか書かないのはなんなのだろうと思う。半分ジョークなのかもしれないけれど、音楽を通して様々なひとと交わることで新しいものを生み出していきたいということでもあるのかなと思ったり。

WATER WAY」という曲のリリックで「流れるボディ ミランダカー」というラインを妙に力強く歌っている部分が個人的に面白すぎてGOOD

 

 

 

続いて2枚目はこちら。

 

“LOGGERHEAD” Wu-Lu

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最近出たものだけれど、何回か聴けばすぐにわかると思う。「なんだ、この音楽は??」というカンジの奇妙さに。

オルタナヒップホップと強引に片付けてしまうこともできるだろうけれど、black midiのドラマーが参加していたりで現行ジャズシーンと共振する部分もあったり。でも作ってる本人はオフスプリングも好きらしい。

WARPから出してるし、まあ、そういうことかなと。でも気をてらうような嫌らしさはなくて不思議とスッキリしているようにも思える。

 

 

 

3枚目にいこう。

 

“Skinty Fia” Fontaines D.C.

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このひとたち、なんかどんどん演奏が良くなっていないか?アルバムを聴いても直近のライブ映像を見てもすごい味わい深い音像になっている。

今作の楽曲はパッと聴いた感じはどれもふつうの歌物として聴ける部分もあるが、基本的にはミニマルな構造を持ったポスト・パンクサウンドになっていると思う。反復しながらも少しずつ音のバリエーションが変化していく。それはまるでこの行き詰まった世界で懸命に日常を繰り返すことで変化や希望を見出そうともがく姿勢の表明としても捉えることが出来そう。90年代のUKロックフレーバーが楽曲やビジュアル面にかっこよく散りばめられていて、そう、すげーかっこいいっす!!

 

 

 

では次、4枚目。

 

“Highgrade” Tirzah

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TirzahはロンドンのSSWで、この“Highgrade”は昨年リリースされた”Colourgrade”という作品のリミックスアルバムになっている。

”Colourgrade”自体が正直俺もいまだにはっきりとイメージを捉え切れていないほど不思議な質感のアルバムだったのだけれど、このリミックスアルバムはもう少しわかりやすいしふつうにノリやすい印象だった。

Arcaのヘンテコなリミックスも聴ける。エクスペリメンタルなことやるひとたちの間では割と「止まってる、停滞している」ような音像がトレンディなのかなと気になったり。

他にも、Actressのはなんかちょっと90’s感というか、エイフェックス・ツインを連想させるような音がなっていると思った。

 

 

 

そんじゃ、5枚目。

 

“caroline” caroline

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carolineはUKインディのバンド。より詳しいことは、もう

www.ele-king.net

これを読んだ方がいいと思う。

バラバラに解けていくような、もしくはこれから新たなものに変化しようとしているようなその音像はそのまま、この不安定な現代を反映しているように思えてならない。ジャケットも然り。

楽譜に記載することが出来る音階だけではなくて、記号では表せない弦とピックが擦れる音とか弦を鳴らしたままペグを緩めていく音みたいな繊細なテクスチャーも綺麗に録音されて混ざり合っているのも、ひとつミソなのかなと思う。

 

 

もう少し挙げてもいいのだけれど、ちょっとめんどくさくなってきたからこの辺りで終わろうかな。

ほんとは同い年のDenzel Curryの新作も聴いてるし、ゆるふわギャングの新作もとてもよかった。

もちろん宇多田ヒカルも聴いているし、ずっと真夜中でいいのに。も聴いてる。田中宗一郎氏や宇野維正氏が絶賛していたから、佐野元春の新作も聴いてる。

そして、いま最も楽しみにしているのは、Kamuiの新作 ”YC2.5”

 

というか、列挙したアルバムだけでただのele-king読者というのがバレバレ。

 

そういえば、aespaの新作も出てるな。

“Girls”のMVを何度か観て俺は、割と真剣に一生あの4人についていこうかなと考え始めたりした。

普段と比べるとあんまりパッとしないかもね〜とか言いながら、”Life’s Too Short”のMVも結局毎日見てしまっているし、「Why would I ever stop ♪」って気づいたら口ずさんでいる。どうしたらいい、この気持ち?

いや、違うな。どうしようもない気持ちになりたいから、俺はあの4人を追いかけているんだろう。きっとそうだと思う。だって、人生はあまりに短いし、ね。

 

悲惨なニュースが続いて、人間の暗い部分が頻繁に垣間見えて誰もが疑り深くなってしまいそうな昨今ではあるだろうけれど、aespaのことは本気で信じてみてもいいんじゃないかなと俺は思い始めている。みんなは、どう?

youtu.be

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専門的でない、気軽に書き流した文章 Vol.2

おしゃれになるという目標を掲げるに際して気づいたこと

 

俺はおしゃれになりたいのではなく、スタイリッシュにラクな格好がしたいだけなのだと思う。

いかに堂々とラクな格好が出来るかが、俺にとっての戦いなのだろう。

 

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ポストマローンの新作を聴いて思ったこと

 

ポストマローンを風呂で歌わせたら最強の風呂歌選手権になってしまうのではないか。

 

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ヒトシの拳 次回予告

 

下北沢に降り立つやいなや

周りとのファッション基礎体力の圧倒的な差に

怖気付いてしまった俺。

負けてられんと大手を振って歩き続けるも

避けられぬ事実に目眩を覚えはじめる。

 

次回、ヒトシの拳

「オシャレになりたいんじゃない、

ただ堂々とラクな格好がしたいだけなんだ」

 

あまりの帽子の似合わなさに、握った拳が震えはじめる。

 

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自分の体についてはわからないことだらけだ、という不安が人間には常につきまとっている。

衣服をまとうことで身体は適度に刺激をうけ、自分自身の身体の輪郭を認識する。そこに安心を覚える。

自分自身の身体については曖昧なイメージを持つことしかできない。だから、風呂入ったり走ったりするとき、身体の輪郭をハッキリ感じることが出来て、それに気持ちよさを感じる。

 

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自転車を買うよりも、新しいランニングシューズとウェアが欲しいかもしれない

 

そんなにダサくない程度のリーズナブルなジャージ上下

シューズはまだ今のを履きたい。

買い換えるときは、10,000円前後でいい。

 

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教育テレビの子供向け番組の風合いが好き。

たぶん子供とか教育自体には興味ない。

 

「子供に見せる」というのが第一前提で作られているから、大人の喋り方に特殊なフィルターがかかっているカンジがして、それが面白い。

真面目と遊びの中間くらいの不思議な塩梅。

 

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俺は目に見えるものだと本と映画とミュージックビデオが好きだ。

目に見えないものだと音楽と感情に興味がある。

人恋しくなることがしばしばあるような寂しがり屋なのに、あまり人に会いたいとも思わない。

たまに曇りの日があると安心する。フラットな心で生きていてもいいような気持ちになれる。

出来ることならどんなことにも過敏な反応を示したくない。誰かが怒鳴っていようとはしゃいでいようと冷静な気持ちでいたい。

自分と似たような暗さを持つ奴にはなるべく手を差し伸べてあげたい。

彼女が欲しいとかデートしたいとかいうよりは、適当な場所さえあればいつまでもおしゃべりし続けられるようなひとがいてほしい。基本的には異性愛者だけど、おしゃべりしてくれるなら性別はどうでもいい気がする。

人との距離感が縮まりすぎると急に不快になってしまうことがある。このせいで他人に迷惑をかけてしまうことが今まで何度もあったから、上手いこと対処していきたいとは思っている。

今まで何度か人を好きになって告白まで漕ぎ着けたこともあるがどれも失敗しているので、来世では是非とも成功例が欲しい。片想いはそれはそれで楽しいのだが。

俺が好きになる音楽家は二人組であることが多い。役割がきちっと分かれてる感じとかビジュアル的なところなんかで理に適ってるカンジがするのかもしれない。

 

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旅行に持っていくもの

 

バックパック

チャンピオンのパーカー

iPhoneの充電器

着替えのパンツ

目薬

小さいタオル

 

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壊れた心にまだ用はあるか

腰に下げた弾切れの銃は

そもそも偽物だったな

交差点ですれ違ったのに

声をかけられなかった

あの時の気持ちみたいで

曇り空を眺めていた

枯れた葉の尖った先がまぶたかすめた

欲しいものがまだ必要なのかと

正直もう充分な気がした

ありったけの速さはもう

充分見せつけたような気はしている

あと大事にしたいものあるか

まだ知らない未来の匂いが気になるから

いつもより靴を綺麗に磨いて

少し遠くの方まで行ってみたい

形のない美しい感情が知りたい

あてのない高揚感で文章を紡ぎたい

 

落ちるところまで落ちたら

暗い部屋に小さな灯りともそう

溢れる思いも今は隠さずに

テーブルの上に並べてみたよ

優しさの抜け殻がエアコンの風に揺れてる

オートマティックなハートだけがカウチに腰掛けて

知らないアニメの第3話

少しだけ興味湧いて観ている

普段より僕はきっと

穏やかな顔してるだろう

悲しいニュースも少し距離置こう

路地裏で猫が鳴いている夜

 

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花粉の時期の目安

 

2月の始め(7〜10日あたり)

4月の後半まで(20日あたり)

 

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キャベツ

ソース

チンジャオロースー

 

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「わたしは最悪。」鑑賞後メモ

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・断念を後退的、否定的な行為でなく、自分の人生を前に押し進めるためのひとつの選択肢にもなり得るものとして描いている。断念することで自分にとって本当に大切なものを少しずつ知る。誰かから貴重な教えを授かったり、喜びを知ったり。なにが自分の視野を広げてくれるかは、自分にしかわからない。間違えなければ自分なりの正しさを理解できない。

・主人公のユリアは物語のなかで退屈、予感、断念の流れを繰り返しているように感じた。本編最初の建物の屋上でのショットはユリアの退屈さ、憂鬱さを、物語中盤の路上にて遠くに輝く朝日や夕日を見つめるショットは期待や予感を、そして終盤の「シャワー」の場面は断念を、といった具合に象徴的に表している。また、それぞれの場面で主人公は高さや階層が異なる場所に立っており、それがユリアの心情の現在地を示すような働きをしている。

・「最悪なわたし」が他人のためにできる利他行為の端的な象徴として「君は最高だよ」というある人物の台詞があったのだと思う。ユリアの断念と対になる感情になっている。

マジックマッシュルームでユリアがトリップする場面において、彼女が父親(あれは継父?)に対して複雑な感情を抱く理由や女性として生きるうえで不安に考えていることが端的に示されている。パーティの場面において母親が子供に対してどう接するべきかということに関してユリアが言及する場面があるが、なぜその点に彼女が強い関心や反応を示したのかということの裏付けにもなっている。

そういった不安な思いの数々と対になるポジティブな感情として、上述したように朝日や夕日が象徴する期待や予感の感情があるのだと思う。ちなみに、この陽性の感情をユリアが感じているとき、劇伴ではシンセの瑞々しい雰囲気のフレーズが流れ出す。これが物語の後半になると感情の変化に伴い質感が変わっていた。

・パーティに紛れ込んだユリアが初めてアイヴィンに出会う場面。パーティ会場での通路脇やクロークルームとして使われている寝室でのやりとりがとても印象的だった。誰かに見られてしまうかもしれないというスリルのなかで、「いや、これは浮気じゃないから」みたいなカンジでしれっとあれやこれややってるの、すげーしょうもないけれど見ていてドキドキするし楽しい場面だった。ふたりの感情や関係性が大きく揺らいでいくのを見せる演出としてもすごい上手かったと思う。

「リコリス・ピザ」鑑賞後メモ

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・偶然性と勘違いと奇跡。くっついたり離れたりを繰り返しながら大切な気持ちに少しずつ近づいていく。そのために必要な速さには自動車や自転車では到達できないけれど、彼らは自分の足で走って迎えにいくことが出来る。shitにまみれた輝きと軽やかさをいつまでも愛している。

・かっちりとした物語の筋があるわけではなく、そこにはゆったりとした70年代の時間の流れと空間が広がる。90年代生まれの俺からすると70年代はDUNEくらい遠いカンジのものにも思えるが、きっとああいう瞬間がいくつも折り重なってひとつの時代を形成していたのだろうなとか、ぼんやりとした感慨を抱きながら鑑賞した。

134分の上映時間が少しだけ長く感じたような気がしたのは、もしかしたら俺の体が2022年型で意識との不整合を起こしたのかもしれない。普段ダラダラ過ごしているつもりの俺ですら、もしかしたら何かに急かされている?

73年のハリウッド近郊、サンフェルナンド・バレーの景色が目の前に広がっているのにもう触れることはできない。だけど、まだ俺なら走って誰かやなにかを迎えにいくことくらいはできるのかな?そんなことを考えたり考えなかったりしながら小田急線の電車に揺られてクソ暑いなか家路につく。各駅停車に乗り換えようとしたら、少し手前の駅で体調を悪くした人がいたみたいで5分くらい電車が遅れた。たった5分の遅れで謝罪のアナウンスが繰り返し駅のホームにこだまする。まあ、その勤勉さにいつも支えられて過ごしている訳なのだけど。

・正直、こういう作品についてガッツリ語れるほど70年代のアメリカンカルチャーに精通していないので、「面白かった」とか「タランティーノのワンアポよりも露悪的なカンジはなくて、かといってオシャレすぎる訳でもなくかっこいいバランスに仕上がってる。むしろそれが欠点か?もうそれくらいかな?」くらいのことしか言えることはない。とにかくこれは家でダラダラ寝っ転がったりしながら何度も繰り返し観たい。家屋の一部をぶっ壊したあとでガソリンのタンクを片手に持ちながら女の子を口説くブラッドリークーパーの背中がただ情けないだけでなくてなんともいえない哀愁を漂わせてもいて、なんだか忘れられない。ああ、カラダが勝手に

「ベイビー・ブローカー」鑑賞後メモ

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・全編にわたって画作りが非常に洗練されており、光の切り取り方がとても丁寧で美しい印象を受けた。具体的な場面をいくつか挙げると、赤ん坊を抱いたドンスとソヨンが光の注ぐ窓辺で語らう場面、サンヒョンたちの乗る車が洗車用の機械に入っていく時の微笑ましい場面が特に印象的で涙がちょちょぎれた。

それと同時に状況説明や人物描写を端的に示す装置としても非常にわかりやすく機能しており、パッと目にした段階で内容がスッと頭に入ってきてくれるためとても見やすかった。常にほんのりとした塩梅で効いた脚本のユーモアもその心地よさを担保していたと思う。

 

・冒頭のソヨンが赤子をポストに入れずにその手前の地面に置いていくという行為が負(とはいうもののこれはいくつかの事情を踏まえた上での行為ではあるが)の「情」として象徴的に描かれ、その後のサンヒョンたちや警官のスジンたちの辿る道筋が交錯しながら事態がもつれていくキッカケにもなっているが、物語が進むにつれて彼らの関係性には変化が生じ、やがてゆるやかな連帯感が生まれる。そして物語の終盤において、「愛」を望むように与えたり与えられることがなかったという後悔や悲しみを抱えた彼らが自身にとっての最低限の尊厳を守るために再び新たな繋がりや活路を見出していこうとする様子が冒頭とは対照的な希望の「情」として描かれる。これは、どうして子供を産んだのか、どうして生まれて来たのか、あるいは生きているのかと言った「生に対する根源的な問い」を抱えて苦しむ物語の登場人物や現実社会の人々の生を肯定したいというアンサーを示すための演出なのだろうと思う。作品のウェブページにもこのことに対して言及している是枝監督のステートメントが記載されている。

 

・「情」を通して築いた他者との関係性がときに自分自身を「遠い」場所まで導いてくれるのだという今作の内包するメッセージは、ロードムービーという構造ともうまく一致していると思う。

 

・是枝監督の作品ではしばしば、というかおそらくどの作品でも「いつかは終わりが来てしまう幸福な時間や空間」についての物語が描かれているように思えるが、これがまさに映画鑑賞という行為そのものに対してのアナロジーになっていて、今作では赤子や終盤の観覧車が象徴するような「無垢性」やその「時限性」に惹かれた人々が映画館に集まり緩やかな繋がりを共有した後でまた離れていくという構造をなぞっているのだというふうに感じられた。

 

バックドアがきちんと閉まらないボロい車は、こぼれ落ちてしまう存在が必ず生まれてしまうような欠陥を抱えた社会構造のメタファー?それに対して割と小綺麗な車に乗っている警官の女性が最終的に迎える結末は希望でもあるようで、ちょっとした皮肉も込められているのかな?

 

・前評判で脚本のユルさを指摘する内容のものがあったりしたので自分もユルめな気持ちで見たが、流石に映画作品としての基礎体力はかなり高いように感じられた。普段の是枝作品よりもエンターテイメント性を担保しようとした結果生じたユルさなのだろうとは思う。

 

・わかりやすく印象的に見せることに成功しているショットが多いだけに、サンヒョンについての結末の描き方が少し駆け足でわかりにくい印象を受けた。そのポイントをもう少し上手く見せることが出来ていたらラストショットの見え方もより感動的なものになったと思う。

「PLAN 75」鑑賞後メモ

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・冒頭から繰り返し印象的に使われる「ボカし」のショットは、この現代日本で「輪郭」を失いつつある高齢者の存在感を示す演出になっていると同時に、社会問題から目は背けていないフリをしながらもまともに現実を捉えられてはいないこの国の不誠実さを浮き彫りにさせているようにも感じられた。そして、このボカしと対になるような演出として倍賞千恵子演じる角谷ミチと河合優実演じる成宮瑶子がカメラ目線になる瞬間がそれぞれひとつずつある。「私たちには問題や欠陥がはっきりと見えているし、それに対しての感情もちゃんと持ち合わせているのだ」という強い感情を無言で端的に鋭く突き刺してくる。

・テレビや電話、職員などが発する無機質なやわらかい声や口調はこの国独特の不気味さを効果的に表す演出になっていた。なんとなく優しいようでそこには温度感がなく、無表情なやわらかさにゆっくりと圧迫されていくような閉塞感が常にある感覚。これはアヴァンタイトル終わり際の印象的なショットでも表現されている。明るい光に溢れた世界から透明なガラスを一枚隔てた薄暗い部屋が、本編には何度も映される。

・「死に方を自分で選ぶ」という美辞麗句で欠陥を抱えた社会構造が覆い隠されているのではないかと鑑賞しながら考えさせられる。本当に選べるものがあるとすれば、それは「死に方」ではなく「自分の尊厳のために生きる道」なのかもしれないと、美しくも切実で厳しいラストショットから感じた。

・日本のごく日常的な景色の中で物語は展開されているが、主人公がホテルで制服を着て働く様子や自宅で過ごす場面においては繊細なライティングや画面構成によって(たぶん)フランス、広くはヨーロッパ映画的な耽美さが映像から感じられた。これは劇中で何度も描写される「冷たい日本社会」との対比として、自分自身の尊厳を決して損なわずに生きてきた彼女の強さや美しさを視覚的に示すための演出なのではないだろうかと思う。

「メタモルフォーゼの縁側」鑑賞後メモ

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・流れゆく日々を生きている中で誰かから受け取ったりどこかで感じたりした優しさや喜びを忘れられない、もしくは忘れたくないから人間は生きているのではないだろうか。誰しも多かれ少なかれ生きている限りは志向性が備わっていて、それはかつて触れた美しさを燃料にして心のどこかで燃え続けているのだと思う。そこから生まれるエネルギーを元にして、人間は行動を起こし始めるのかも。本編ラストのセリフもこのことに通ずるはず。

・人物に輪郭を与えていく行為のモチーフとして漫画が使われている。自分と他者、内と外、現実と非現実が混ざり合う空間=「縁側」で交流することで、芦田愛菜演じるうららは自分自身の輪郭(=本質)を少しずつ知り、宮本信子演じる雪は新たな世界を知ると共にかつて感じていた喜びの輪郭を再びなぞり始める。他者との関係性を通して、作中の登場人物たちは自分自身の既存の輪郭を超え、変容=メタモルフォーゼを遂げる。

 自分にとって大切なモノや美しさとはどんなものなのか。そのヒントは記憶のなかに眠っていて、それに触れることで新たな未来への入り口を知るのかもしれない。

・数ある漫画の中でもBLが引用されるのは、(少なくとも作中に登場する作品は)自分が抱える恐れや弱さを超えていく勇気や、その先にたどり着く美しい景色=「完璧な一日」を描いた物語だからなのだろうと思う。

・脇役の人たちやセリフの少ない人たちに対しての演技の演出がきめ細かく丁寧な印象を受けた。常に薄味で品のあるユーモアが効いており、心地よさを担保していた。物語中盤、照明の明暗のコントラストとモノローグを利用した主人公の心理の引き裂かれ描写もとても印象的だった。