部屋とYシャツとタイソン

誰にも求められてはいないのだけど、今回は俺のおすすめというか、読んで面白かった本をいくつか紹介しようと思う。

まあ、典型的な文系人間で、俺は読書も好きなんだ。読むペースはかなり遅いが。

 

ということで、まず1冊目はマイクタイソンの自伝、「真相」

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これを読む前はタイソンのことに関しては全く詳しくもなかったというか、クレヨンしんちゃんの漫画でしんちゃんがなんかのタイミングで「マイクタイソンパンチアウト」って言ってたことが記憶に残っていたというレベルだったので、まあ波乱万丈だったけどなんとか王座についた華々しいボクシングの話かな〜なんてぼんやり思っていたのだけど、実際にはそういう話は最初の方で終わってしまう。その後に続くのは、慕っていた師匠を失ってしまったことで完全に調子を崩し始めるマイクタイソンの混乱の日々だった。そう、初めてチャンピオンになるくらいの頃に彼のカス・ダマトという師匠というかボクシングのコーチが亡くなってしまうのだけど、そこからタイソンがあんまり正気な感じではなくなっていくのだ。金、セックス、ドラッグ、暴力そしてセックスとドラッグというような感じで生活がどんどん常軌を逸したものになっていく。

非常に気の毒なのだけど、面白い。文体はずっとタイソンの一人称の語りなので、なんとなくジャイアンみたいな声を連想しながら読んだりしていた。

ハードボイルドな文章が好きな人には特におすすめできるかもしれない。

終盤の方になってくると、「この時から俺はコカインを止めたんだ」というような文章が5回くらい定期的に出てくるもう!ダメゼッタイ。そういえば、コカイン鼻から吸い続けてると鼻の軟骨が溶けて行って鼻の穴が繋がっちゃったりするらしい。

 

続いて二冊目は、ジョイディヴィジョンの伝記、「この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも」

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DIR EN GREYの曲名みたいになってしまっているけど、これはジョイディヴィジョンの伝記的な内容になっている。

全編がジョイディヴィジョンのメンバーたちやその関係者たちの証言で構成されている。

彼らが出てきたマンチェスターという街の成り立ちから描かれるので、読む前まではなんとなくしか知らなかった彼らの存在についてかなり詳しく知ることができる。

ああいう音楽なので、みんなおとなしい感じの人なのかなと思っていたのだけど、意外とそんなことはなくて、みんな結構ブチ抜けている。

ジョイディヴィジョンの成り立ちと同時に、ポストパン/ニューウェイヴの流れが生まれる1980年頃の空気感もこの本を読むことで結構つかめてしまうので、ものすごい勉強にもなる。すげー面白い。

 

次で三冊目、とりあえず今回はこれでラストにしよう。

デヴィッドグレーバーの「ブルシット・ジョブ」

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これはいま読んでる人も結構いるのではないだろうか。

ブルシットジョブとは「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」と本の中では定義されている。まあ、読んでいくとこれよりさらに突っ込んだことが書かれている。

なぜそんな仕事がこの世界に溢れているのか、読んでいくうちにその原因となる歪な社会構造が浮き彫りになっていく。後半の方では「労働」や「生産」といった概念そのものの成り立ちについてまで言及してくれる。

正直この本、バカみたいにデカいし内容も長いのでそこそこ読むのがめんどくさかったのだけど、最近読んだ本の中ではかなり勉強になったな〜と思っているので、おすすめに入れておこうと思う。

 

まあ、今回はこんな感じでいいかな。また気が向いたら本について書こうと思う。バイビー。

呪術廻戦

最近、アニメ版の「呪術廻戦」を一通り見終えた。

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従来の、強さが増していくほど現実との乖離も大きくなってしまうバトル漫画とは違い、元から持つ強さをコントロールすることで真の強さを発揮していくという描写が繰り返し描かれるのが面白かった。

両面宿儺や五条悟といった最強っぽいキャラクターが最初から登場することや、そもそも主人公の虎杖がその最強のやつを宿しているのだから、足し算的な強さの進展を描く気がないことが結構はっきりしているように思う。

もうひとつ新しさを感じたポイントがあった。それは、ちゃんと現実の社会とリンクするような、「現代性を持ったストーリー」を描こうとしている点だ。

割と突飛な設定のようでも舞台となっているのは一応我々が生きる現代日本であるし、シーズン1で七海建人や伊地知といった割と普通の社会人よりのキャラクターと関わる話が中心に描かれているのは

上述の「現代性を持ったストーリー」という点を意識しているからだろう。

実在の女優名やギャグの引用があることも、そことは決して無関係でないように感じる。

祖父の世話をすることを何よりも大事にしてきたことでほとんど自分に対しての執着を持たない超いいヤツである虎杖が、超悪いヤツである両面宿儺の指を食べていくという流れがストーリーの軸になっているということは、要するに今作がこの世界の不条理な、都合の悪い部分との「擦り合わせ」を行っていくことで彼が納得できるような社会との接続の仕方を身につけていくこと、つまり大人になる過程を描こうとしているということなのだと思う。

「正しい死」とは何か、「本当に守りたいもの」を守るために手を汚す覚悟はあるのか。見せかけの清潔感だけを纏う「ピュアネス」を描く時代はもうとっくに終わっているのだなと痛感させられた。

 

虎杖と共に主要な登場人物である釘崎と伏黒のキャラクター設定が、それぞれ対照的であるのも面白い。

釘崎は、単純に虎杖とは真逆に近い設定であると思う。幼い頃に経験した年上の友人との別れ(「ミスミソウ」を意識してる?)が彼女の人格形成に大きく関わっているように描かれていて、どんな時でも「自分であること」を大事にしている。ポジティブな方向にではあるが、自分というものに対しての執着をしっかりと持っている。

伏黒は、虎杖とも釘崎とも似ていない。悪いっぽいやつも偽善っぽいやつも嫌いで、中庸の立場にいる。すごく強いやつであるという描写は意識的に抑えられている。弱さを外に出さないようにしているというか、上手く隠せてしまう。

ある意味、このストーリーのテーマ的に虎杖よりも主役っぽいような設定であるようにも感じる。漫画版の方でも一番最初に登場するのは虎杖ではなく伏黒であるし。これは、ちょっと意図されているところもあるのだろうか。伏黒を主役にしてしまうと、もしかしたらちょっと陳腐というか湿っぽい話になりかねないのかもしれない。虎杖が中心にいることで「呪術廻戦」の快活さは担保されているのだろう。

 

「呪い」というモチーフは「過去からのバイアス」の象徴であり、それに飲み込まれることなく「コントロール」することで新たな未来を切り開く力を手に入れるということなのだと思う。

 

個人的には、シーズン1の内容がとても面白かった。

「現代性を持ったストーリーを描く」ことを提示する内容であると同時に、吉野順平が中心になるエピソードは「作者個人の過去についての言及」のようにも思えた。

実際に作者が順平のような経験をしたかどうかはもちろんわからないけれど、少なくともああいった出来事や感情などが「呪術廻戦」という物語を描こうとした意思や動機、核のようなものになっていることを感じることはできた。

また、オープニングの映像も、人生においてある種の「移行期間」にある虎杖が電車に揺られているところから始まるのも象徴的で良いと思った。

彼はまだ「ハンドル」を握ってはいない。勝手に進み続ける乗り物に揺られて眠る彼の本当の「覚醒」は、まだまだこれから先のことなのであろう。

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ここ最近、映画館にいくこともめっきりなくなってきたというか、海外作品の上映が目立たなくなってきていたこともあって楽しみがあんまりなかったので、「呪術廻戦」を毎日少しずつ見ていくのが楽しかった。

ぶっちゃけ、シーズン2はそこまで目新しさを覚えるようなことはなかった(というか、このシーズンの面白みが東堂というキャラクターに全振りされている点がいちばん面白かった)のだけど、虎杖たちの軽快なやりとりをみているのが、繰り返しになるが楽しかった。なので、最近はまたちょくちょく見返している。漫画版もちょっと読んでみたい。

花束ぶんぶん丸

米津玄師の「Pale Blue」を最近ちょくちょく聴いてる。

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この曲の歌詞を何度か読んでみたけど、これ実は「身勝手な男性性」についての歌詞なんじゃないだろうかと思う。

普通に読むと女性目線の別れについて書かれたものとして読めるけど、なんていうか、そのまま受け取るとちょっと淀みがなさすぎるというか。

これはむしろ、女性への気持ちを「望み通りに」終わらせるための、男性側による想像的な女性視点の歌詞なのではないかと思ったり。

どんな気持ちでいるかわからないけど、こう思っていて欲しいというような男性側の勝手な理想というか希望というか、そういうものを感じてしまう。ジャケットの絵も「見つめている/見つめ返されている」という構図であるし。

「恋をしていた」とか「この思いはなに」というようなフレーズは、思わず滲み出た男性側の心情吐露のようで、視点に「揺らぎ」が含まれていることも感じさせる。

曲の構成自体もいろんなパートがにじみあうように繋がっているし、新しいアー写も揺らいでいるし、そういう「揺らぎ」を表現したいタイミングなのだろうか。

上に貼り付けたミュージックビデオには本人も出ていて、花束を持ってる。

これがもし、The smithsの「This Charming Man」を意識してるのだとしたら、やっぱり上述のような読み方もありなのではないかと思ってしまう。

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この曲の歌詞も「身勝手な男性性」について描かれているし、やっぱりそういうことなんじゃないだろか。どうなのだろう。本人のみぞ知る。

 

歌詞といえば、東京事変の新作の歌詞もだいぶ面白い感じだよな。まだ全部はちゃんと読めてないけど、「緑酒」の歌詞とかミュージックビデオとか、もう完全に悪人寄りの視点じゃねえかっていう。

よくこんなにカラッとはっきりと現実を描けるなーと感心しまくる。ちょっと笑えるくらいのバランスに仕上げてあるし、レベルがたけー。

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ヒップホップ貞子

暇なのでまた適当になんか書こうと思う。

 

この一年くらいはラップを中心に音楽を色々探したり聴いたりしていたのだけど、最近やっと俺の中で好みなラッパーが固まってきたように思う。

ロックを中心に聴いてる時もそうだったのだけど、やっぱりスタンダードなものよりブチ抜けているカンジのものを好きになる傾向はある。

具体的な名前を挙げると、トラヴィススコットとかダニーブラウンとかタイラーとか、そんなカンジ。

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そもそも、ほんとに最初に好きになったラッパーはタイラー ザ クリエイターだったと思う。2013年ごろに「Goblin」とか「Wolf」を聴いてた気がする。

タイラーを聴き始めたきっかけは、スガシカオツイッターで推してたのを見かけたからだったのを覚えてる。やっぱりこれとかインパクトあった。

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それと、ラップ関係ないんだけど2017年にキャスリンビグローの「DETROIT」を映画館で観たのは割とデカかった気がする。

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あれの尋問シーンが結構ヘビーでかなり強いインパクトを受けた記憶があるから、もし観てなかったら今ほど黒人のカルチャーとかに関心を持ってなかったかもしれん。

あとはケンドリックラマーをフジロックで観たのも大きかったのかな。あまりにも強力な疲労と尿意に取り憑かれたせいで40分くらいで観るのをやめてしまったが、多分大きかった。

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あとは、一昨年くらいに面白いロックの音楽があんまり見つけられなかったのもあるか。最近はまたUKからポストパンク的なバイブスを持った面白い連中が出てきたりもしてるからロックも楽しいけど。

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まあ、そんなこんなでゆるーい変遷を辿りながら今に至るのだけど、ほんとに最近の方までラップ特有の「いなたさ」には馴染めていなかったなとも感じる。

やっぱりロック系のものばかり聴いてきていたから、ガツーンとくる感じのものしかしばらくは聴けなかったな。というか、今だにディアンジェロとかはまともに聴けていないので、まだまだ開発の余地はある。

でもまあ、色々聴いてみたりヒップホップ史の本を読んだりしてみることで聴けるものも少しずつ増えた。

去年くらいはまだ社会科見学みたいな気持ちが抜けないまま聴いてたけど、今はもう少しマシになったと思う。ちょっとしたホームステイくらいのテンションにはなってきてる。

 

あ、そうだ、全然話変わるんだけど、最近やっと映画の「リング」と「呪怨」をまともに観ることができた。

最近みた「VIDEOPHOBIA」って映画があまりにも面白すぎたのだけど、その内容がたぶん「リング」とか「呪怨」らへんのJホラーからの影響を強く受けているようなものだったので、

「これは観るなら今なんじゃないか?」というどうでもいい使命感が湧いてきたことで鑑賞が可能になった。

いざ観てみると、どちらも本当に真っ当な、結構良質な正統派ホラーだなと思った。演出はやっぱりちょっと古く見えてしまうところもあるけど(デカい音で「チャラーン♪」みたいな音と共にトシオ登場!みたいなとこなど)、描かれる内容がちゃんとこの日本という土地の歴史とか社会情勢を汲んだものになってるし、なにより普通に面白かった。これと黒沢清の「回路」とかがやっぱり現代Jホラーの礎になってるんだなーと肌感覚で理解できた。

「リング」と「呪怨」とで、明らかに描いているものが対照的なところとかも面白かった。

「リング」はマンションの一室が主な舞台で、父と娘の因縁があって、貞子は基本ビデオの中にいてラストにわざわざこっち側まで来てくれる。そして意外と清潔感がある。

それに対して「呪怨」は一軒家が舞台で、母と息子の怨念とか悲しみがあって、彼らは割とずっと現実世界に出っ放しで、こちら側の人間を「あちら側」に引き摺り込んでいく。そんで何かと汚い。

他にも色々あると思うけど、明らかに互いに意識しあってる内容になってるとは思う。これって有名な話だったりするのか?

最近公開されてた「貞子」とNetflixのドラマ版「呪怨 呪いの家」でもこの対照的な描かれ方は共通していると思うし。

 

まあ、色々書いたけど、最近の俺はこんな感じで、ゆるくトラウマを克服したり、ラップ聴いたりしてる。

VIDEOPHOBIA

宮崎大佑監督の「VIDEOPHOBIA」を観た。

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ブログでこんなことを言うと本末転倒なのだけど、この作品をいちいち言葉で語るのはなんだか野暮ったいと言うか、自分の語彙も足りない気がしているので、あえて自由きままに「イメージ」を投影していくような

感覚で書いていこうかと思う。

とても単純な感想だけ先に書いておくと、アホみたいに面白い映画なので、とてもおすすめ。

 

平日の真昼間の、空っぽな、「空虚なカンジ」の正体が一体なんなのか結局掴めないままダラダラと生きてきたけれど、この作品「VIDEOPHOBIA」を観ることで

自分が知りたかったことを映像として提示してもらえたような気がした。

デジタル空間への逃避はもうすでに完了してしまったのかもしれないと感じさせるほどに、平日の真昼間はやっぱり空っぽだ。

この国で何故か最も尊いものとされているような「青春」を通過し終えた後にはずっと、モノクロームな舗装されたアスファルトが延々と続いている。

どこが起源なのかわからない悲しみを纏い続けるのが義務と化しているのか知らないが、幼い頃に恐れていた「空虚なカンジ」が、もう隣に居座っている。

「空虚なカンジ」は自分の中での印象に過ぎないけれど、イメージを必要以上に大きく感じる心になってしまった。

技術の発展とともにイメージはより具体的なカタチで可視化されるようになって、それは再び強度を増した見えないイメージに還元され、ひとの心に住み始める。

もはや、イメージからの逃げ場としてこの空っぽな、舗装された現実世界が存在しているような気すらしてくる。

肉体とアバターの間を常に揺れ動くように生きている。

不気味だけれどひたすら心地よいこの映像作品は、巧みな編集技術で書き換えられた過去や悪夢の複製なのだろうか。

 

作品の冒頭、MacBookの画面を見つめる主人公の女性を正面から捉えることで「観る/観られる」の関係を反転しにかかる。そこから常に生じる現実と想像との「揺らぎ」が心地よい推進力となって虜になってしまう。

この始まり方からして、果たしてこれは「見つめている」のか「見つめられている」のかが曖昧だったりする。

真夜中に主人公がベランダから見かける人影に2回ともあまり説明がないのも、強烈な演出だなと個人的に思う。

ラストのカットでは、主人公が鏡を見つめている。Jホラー的というか「リング」っぽくもあり、「鏡の国のアリス」的でもある、印象的なラストカット。

 

この作品の公式サイトには、何人かの著名人の絶賛コメントみたいなのも掲載されていたのだけど、

その中で小泉今日子が「ヌーヴェルヴァーグの香りがぷんぷん匂う」とコメントしていた。

ヌーヴェルヴァーグ」と言う言葉を最近やっと本で知った俺は、「ヌーヴェルヴァーグっぽさ」ってこういうことなのか~と安易な感心をしながら画面にかじりついてこの作品を鑑賞した。

 

エンドロールの曲のミュージックビデオも宮崎大佑監督が作ってるみたい。

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誰かがYouTubeのなんかのMVのコメント欄でも言っていたのだけど、Jin Doggは俳優やったらすごい合ってそうだなと思う。

Kamomekamomeの新作出ないのかな。「エクスキューズミー」が個人的にとても好きだ。

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感情に溺れない(ようにしてるけどそれでも溺れる)

つい最近、ナワポン・タムロンラタナリット監督の「ハッピーオールドイヤー」を観た。

平凡な日本人の俺が、普段あまり出くわすことのないような雰囲気の名前。タイの映画監督だ。

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「理想的なミニマリスト」となった主人公の女性の「横顔」を映すところから物語は始まる。

いかにして彼女はそれを、「断捨離」を成し遂げたのか、時間は過去に巻き戻されその過程を辿る。

 

書店に置かれている、「ミニマリストの部屋の写真が掲載された本」の数ページを「主人公がスマホで撮影するというアクション」を俯瞰視点で捉えるという層のあるショットによって理想とのまだ遠い距離感を表す印象的なシークエンスがスタート地点となる。

何故主人公の女性はミニマリストへの道を歩み出すのか。

それは元カレからの影響であり、新たなオフィスを構えるためであり、今だ家庭にこびりつく過去を精算し前進するためであり…

という感じで色々あるが、本質的には「許し」を求めるための過程であると思う。

このことに関して、主に元カレとのやりとりを通して主人公も徐々に気づき始める。そして、その根底にある身勝手さについても。

 

「もうときめかなくなった過去に感謝して、スッキリ精算してしまおう」という考え方には、実はかなり身勝手な、自分勝手な側面もあるのではないか。

それによってその「ごみ」はこの世から完全に消えるわけではなくて、誰かに押し付けてしまっている可能性すらある。

この作品は、主人公に対してだけではなく、欧米でも流行りとなった「断捨離」の根底にある人間の普遍的な身勝手さ、物質中心主義的な思考に冷や水を浴びせる。

「不要なモノを捨てること」=「より効率的な生き方をする」という考えは、実は物質に執着し続けているからこそ生まれるものなのではないかという矛盾すら浮かび上がる、ような気もする。

(こんまりの動画とか俺はあんまり観たことないのでよく知らない部分が多いけど、作品中では割と悪者よりに描かれてるように思える。)

 

自分が抱えたくないものを、完全に消し去ることはできない。それはサノスですらそうだったのだから。

どれだけ断捨離を進めても、決して消え去ってくれないものがある。それは目に見えない形で確かにそこにあり、抱えていくしかない。それこそが、身勝手さに対してのひとつの回答だ。

最後、主人公のクローズアップのショットで「観る、観られる」の関係は反転し、その目線はこちらも当事者であることを自覚させる。この身勝手さは自分自身の投影でもあるのかもしれないと、思考を促される。

 

 

そういえば、作品内での「身勝手さ」と対照的なものとして「もらったものは返す」という行為が描かれているのだけど、これは完全に「シン・エヴァンゲリオン」とリンクしていて面白かった。

観ながら思わず一人で「あれ、これシンエヴァなんじゃないか」と声が出てしまった。

まあでも、この「返す」っていう行為も場合によっては「身勝手さ」と背中合わせになってるんだよな、この作品では。

ミニマルな劇伴と共に落ち着いた語り口で物語が進んでいくので観ていて心地よいのだけど、非常に冷めた視点が含まれた作品でもあると思う。だから、ガパオ食いながら観るといいと思う。

 

あ、そうだ、この作品ですごい面白いポイントのひとつとして、最終的に主人公は「HOW TO TING(どうやって捨てるか)」のルールをほとんど守れていないというのがあると思う。

物語の中で彼女が何度も泣いてしまうところは逆に笑えてきて面白かったりする。

それでも最終的には「理想的なミニマリスト」として取材を受けている彼女がいるわけで。

つまりは、本当の意味でのミニマリストには、「身勝手さ」を抱えながら求道者であり続けるということでしかなり得ないのかもしれない。

見えないものをキャプチャすること

この前、キム ボラ監督の「はちどり」を観た。

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これまでになかったような切り口で描かれた「青春映画(的な不思議なもの)」という印象が個人的には強い。

この作品は言葉で断定しきれない「曖昧さ」を正確にキャプチャすることを試みているように思える。

映画の冒頭から映される「扉」は劇中に繰り返し現れ、いくつもの区切られた「世界」を創出し不透明さの底流を生み出す。

たったひとつの扉があるだけで、そこには周囲に知られることのない「世界」が生み出され、見知ったように思っていたひとの、まるで他人のような側面が突如として立ち現れる。

それが幾重にも積み重なり層を成していく。それはどこまでも広がり、やがて輪郭を失った惰性的で不完全な「世界」の仕組みをも浮き彫りにする。

しかしその違和感は長い時間を経て日常に染み付き、いつしかその正体すら見失わせる。

気づけば見当違いな場所でドアをノックし続けてしまうことだって、あるだろう。

 

 

この作品の、いい意味での曖昧さの中で繰り返し印象的に描かれるのは、

 

・閉じられていたものを開いて「しこり」を取り出すというアクション

・古い時代から新しい時代への転換期であるということ

 

上記の2つだ。

最初の点に関しては、主人公の耳の下にできた「しこり」を手術で取り出すという流れはもちろんのこと、作品内でのやり取りは基本的に「しこり」、つまり障壁のようなものを取り出すことを目指していることが多いように思われるためだ。

また、2つ目の点に関しては、主人公は中学二年生であり、兄は受験勉強の真っ只中であり、両親の関係にも揺らぎが生じ始めること、また韓国という国自体が軍事政権時代やオリンピックを経て近代化を遂げようとしていることなどが象徴的である。

どんなひとだって、生きている限りは良くなっていくためにもがいて生きるものだろう。

そのために、いくつもの出会いや喪失を経験し、少しずつ成長しようとする。

しかしそこには終着点が設けられていなくて、様々な不安や悲しみが折り重なるように次々とやってくる。

ぼんやりとした予感、期待と不安の磁場の上を、それでもタイトルの「はちどり」のごとく、忙しなく羽を動かしながら低空を浮遊し続ける。

 

物語の中盤以降、映し出される画は少しずつ解放感を帯びていく。

基本的には前半と同じ場所でのやりとりを描いているのだが、閉じられていた「扉」を開いていくことでその世界の全体像は少しずつ広がっていき、やわらかな光が差し込み出す。

主人公やこの「世界」の内部に少しずつ接続していくような、手作り感が心地よいエレクトロニカの劇伴もこの作品の映画的快楽に満ち溢れた映像の心地よさを増幅する。

 

それでも全てを知ることはないが、俯瞰するような視点に少しだけ足をかけた主人公の目には、いくつもの感情や喧騒が層をなすこの世界の「不思議さ」だけが、ただはっきりとそこに存在することの確信を得る。

素敵なひとが残してくれた言葉とタバコのフレーバーを、忘れることはないだろう。