呪術廻戦

最近、アニメ版の「呪術廻戦」を一通り見終えた。

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従来の、強さが増していくほど現実との乖離も大きくなってしまうバトル漫画とは違い、元から持つ強さをコントロールすることで真の強さを発揮していくという描写が繰り返し描かれるのが面白かった。

両面宿儺や五条悟といった最強っぽいキャラクターが最初から登場することや、そもそも主人公の虎杖がその最強のやつを宿しているのだから、足し算的な強さの進展を描く気がないことが結構はっきりしているように思う。

もうひとつ新しさを感じたポイントがあった。それは、ちゃんと現実の社会とリンクするような、「現代性を持ったストーリー」を描こうとしている点だ。

割と突飛な設定のようでも舞台となっているのは一応我々が生きる現代日本であるし、シーズン1で七海建人や伊地知といった割と普通の社会人よりのキャラクターと関わる話が中心に描かれているのは

上述の「現代性を持ったストーリー」という点を意識しているからだろう。

実在の女優名やギャグの引用があることも、そことは決して無関係でないように感じる。

祖父の世話をすることを何よりも大事にしてきたことでほとんど自分に対しての執着を持たない超いいヤツである虎杖が、超悪いヤツである両面宿儺の指を食べていくという流れがストーリーの軸になっているということは、要するに今作がこの世界の不条理な、都合の悪い部分との「擦り合わせ」を行っていくことで彼が納得できるような社会との接続の仕方を身につけていくこと、つまり大人になる過程を描こうとしているということなのだと思う。

「正しい死」とは何か、「本当に守りたいもの」を守るために手を汚す覚悟はあるのか。見せかけの清潔感だけを纏う「ピュアネス」を描く時代はもうとっくに終わっているのだなと痛感させられた。

 

虎杖と共に主要な登場人物である釘崎と伏黒のキャラクター設定が、それぞれ対照的であるのも面白い。

釘崎は、単純に虎杖とは真逆に近い設定であると思う。幼い頃に経験した年上の友人との別れ(「ミスミソウ」を意識してる?)が彼女の人格形成に大きく関わっているように描かれていて、どんな時でも「自分であること」を大事にしている。ポジティブな方向にではあるが、自分というものに対しての執着をしっかりと持っている。

伏黒は、虎杖とも釘崎とも似ていない。悪いっぽいやつも偽善っぽいやつも嫌いで、中庸の立場にいる。すごく強いやつであるという描写は意識的に抑えられている。弱さを外に出さないようにしているというか、上手く隠せてしまう。

ある意味、このストーリーのテーマ的に虎杖よりも主役っぽいような設定であるようにも感じる。漫画版の方でも一番最初に登場するのは虎杖ではなく伏黒であるし。これは、ちょっと意図されているところもあるのだろうか。伏黒を主役にしてしまうと、もしかしたらちょっと陳腐というか湿っぽい話になりかねないのかもしれない。虎杖が中心にいることで「呪術廻戦」の快活さは担保されているのだろう。

 

「呪い」というモチーフは「過去からのバイアス」の象徴であり、それに飲み込まれることなく「コントロール」することで新たな未来を切り開く力を手に入れるということなのだと思う。

 

個人的には、シーズン1の内容がとても面白かった。

「現代性を持ったストーリーを描く」ことを提示する内容であると同時に、吉野順平が中心になるエピソードは「作者個人の過去についての言及」のようにも思えた。

実際に作者が順平のような経験をしたかどうかはもちろんわからないけれど、少なくともああいった出来事や感情などが「呪術廻戦」という物語を描こうとした意思や動機、核のようなものになっていることを感じることはできた。

また、オープニングの映像も、人生においてある種の「移行期間」にある虎杖が電車に揺られているところから始まるのも象徴的で良いと思った。

彼はまだ「ハンドル」を握ってはいない。勝手に進み続ける乗り物に揺られて眠る彼の本当の「覚醒」は、まだまだこれから先のことなのであろう。

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ここ最近、映画館にいくこともめっきりなくなってきたというか、海外作品の上映が目立たなくなってきていたこともあって楽しみがあんまりなかったので、「呪術廻戦」を毎日少しずつ見ていくのが楽しかった。

ぶっちゃけ、シーズン2はそこまで目新しさを覚えるようなことはなかった(というか、このシーズンの面白みが東堂というキャラクターに全振りされている点がいちばん面白かった)のだけど、虎杖たちの軽快なやりとりをみているのが、繰り返しになるが楽しかった。なので、最近はまたちょくちょく見返している。漫画版もちょっと読んでみたい。