見えないものをキャプチャすること

この前、キム ボラ監督の「はちどり」を観た。

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これまでになかったような切り口で描かれた「青春映画(的な不思議なもの)」という印象が個人的には強い。

この作品は言葉で断定しきれない「曖昧さ」を正確にキャプチャすることを試みているように思える。

映画の冒頭から映される「扉」は劇中に繰り返し現れ、いくつもの区切られた「世界」を創出し不透明さの底流を生み出す。

たったひとつの扉があるだけで、そこには周囲に知られることのない「世界」が生み出され、見知ったように思っていたひとの、まるで他人のような側面が突如として立ち現れる。

それが幾重にも積み重なり層を成していく。それはどこまでも広がり、やがて輪郭を失った惰性的で不完全な「世界」の仕組みをも浮き彫りにする。

しかしその違和感は長い時間を経て日常に染み付き、いつしかその正体すら見失わせる。

気づけば見当違いな場所でドアをノックし続けてしまうことだって、あるだろう。

 

 

この作品の、いい意味での曖昧さの中で繰り返し印象的に描かれるのは、

 

・閉じられていたものを開いて「しこり」を取り出すというアクション

・古い時代から新しい時代への転換期であるということ

 

上記の2つだ。

最初の点に関しては、主人公の耳の下にできた「しこり」を手術で取り出すという流れはもちろんのこと、作品内でのやり取りは基本的に「しこり」、つまり障壁のようなものを取り出すことを目指していることが多いように思われるためだ。

また、2つ目の点に関しては、主人公は中学二年生であり、兄は受験勉強の真っ只中であり、両親の関係にも揺らぎが生じ始めること、また韓国という国自体が軍事政権時代やオリンピックを経て近代化を遂げようとしていることなどが象徴的である。

どんなひとだって、生きている限りは良くなっていくためにもがいて生きるものだろう。

そのために、いくつもの出会いや喪失を経験し、少しずつ成長しようとする。

しかしそこには終着点が設けられていなくて、様々な不安や悲しみが折り重なるように次々とやってくる。

ぼんやりとした予感、期待と不安の磁場の上を、それでもタイトルの「はちどり」のごとく、忙しなく羽を動かしながら低空を浮遊し続ける。

 

物語の中盤以降、映し出される画は少しずつ解放感を帯びていく。

基本的には前半と同じ場所でのやりとりを描いているのだが、閉じられていた「扉」を開いていくことでその世界の全体像は少しずつ広がっていき、やわらかな光が差し込み出す。

主人公やこの「世界」の内部に少しずつ接続していくような、手作り感が心地よいエレクトロニカの劇伴もこの作品の映画的快楽に満ち溢れた映像の心地よさを増幅する。

 

それでも全てを知ることはないが、俯瞰するような視点に少しだけ足をかけた主人公の目には、いくつもの感情や喧騒が層をなすこの世界の「不思議さ」だけが、ただはっきりとそこに存在することの確信を得る。

素敵なひとが残してくれた言葉とタバコのフレーバーを、忘れることはないだろう。