感情に溺れない(ようにしてるけどそれでも溺れる)

つい最近、ナワポン・タムロンラタナリット監督の「ハッピーオールドイヤー」を観た。

平凡な日本人の俺が、普段あまり出くわすことのないような雰囲気の名前。タイの映画監督だ。

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「理想的なミニマリスト」となった主人公の女性の「横顔」を映すところから物語は始まる。

いかにして彼女はそれを、「断捨離」を成し遂げたのか、時間は過去に巻き戻されその過程を辿る。

 

書店に置かれている、「ミニマリストの部屋の写真が掲載された本」の数ページを「主人公がスマホで撮影するというアクション」を俯瞰視点で捉えるという層のあるショットによって理想とのまだ遠い距離感を表す印象的なシークエンスがスタート地点となる。

何故主人公の女性はミニマリストへの道を歩み出すのか。

それは元カレからの影響であり、新たなオフィスを構えるためであり、今だ家庭にこびりつく過去を精算し前進するためであり…

という感じで色々あるが、本質的には「許し」を求めるための過程であると思う。

このことに関して、主に元カレとのやりとりを通して主人公も徐々に気づき始める。そして、その根底にある身勝手さについても。

 

「もうときめかなくなった過去に感謝して、スッキリ精算してしまおう」という考え方には、実はかなり身勝手な、自分勝手な側面もあるのではないか。

それによってその「ごみ」はこの世から完全に消えるわけではなくて、誰かに押し付けてしまっている可能性すらある。

この作品は、主人公に対してだけではなく、欧米でも流行りとなった「断捨離」の根底にある人間の普遍的な身勝手さ、物質中心主義的な思考に冷や水を浴びせる。

「不要なモノを捨てること」=「より効率的な生き方をする」という考えは、実は物質に執着し続けているからこそ生まれるものなのではないかという矛盾すら浮かび上がる、ような気もする。

(こんまりの動画とか俺はあんまり観たことないのでよく知らない部分が多いけど、作品中では割と悪者よりに描かれてるように思える。)

 

自分が抱えたくないものを、完全に消し去ることはできない。それはサノスですらそうだったのだから。

どれだけ断捨離を進めても、決して消え去ってくれないものがある。それは目に見えない形で確かにそこにあり、抱えていくしかない。それこそが、身勝手さに対してのひとつの回答だ。

最後、主人公のクローズアップのショットで「観る、観られる」の関係は反転し、その目線はこちらも当事者であることを自覚させる。この身勝手さは自分自身の投影でもあるのかもしれないと、思考を促される。

 

 

そういえば、作品内での「身勝手さ」と対照的なものとして「もらったものは返す」という行為が描かれているのだけど、これは完全に「シン・エヴァンゲリオン」とリンクしていて面白かった。

観ながら思わず一人で「あれ、これシンエヴァなんじゃないか」と声が出てしまった。

まあでも、この「返す」っていう行為も場合によっては「身勝手さ」と背中合わせになってるんだよな、この作品では。

ミニマルな劇伴と共に落ち着いた語り口で物語が進んでいくので観ていて心地よいのだけど、非常に冷めた視点が含まれた作品でもあると思う。だから、ガパオ食いながら観るといいと思う。

 

あ、そうだ、この作品ですごい面白いポイントのひとつとして、最終的に主人公は「HOW TO TING(どうやって捨てるか)」のルールをほとんど守れていないというのがあると思う。

物語の中で彼女が何度も泣いてしまうところは逆に笑えてきて面白かったりする。

それでも最終的には「理想的なミニマリスト」として取材を受けている彼女がいるわけで。

つまりは、本当の意味でのミニマリストには、「身勝手さ」を抱えながら求道者であり続けるということでしかなり得ないのかもしれない。

見えないものをキャプチャすること

この前、キム ボラ監督の「はちどり」を観た。

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これまでになかったような切り口で描かれた「青春映画(的な不思議なもの)」という印象が個人的には強い。

この作品は言葉で断定しきれない「曖昧さ」を正確にキャプチャすることを試みているように思える。

映画の冒頭から映される「扉」は劇中に繰り返し現れ、いくつもの区切られた「世界」を創出し不透明さの底流を生み出す。

たったひとつの扉があるだけで、そこには周囲に知られることのない「世界」が生み出され、見知ったように思っていたひとの、まるで他人のような側面が突如として立ち現れる。

それが幾重にも積み重なり層を成していく。それはどこまでも広がり、やがて輪郭を失った惰性的で不完全な「世界」の仕組みをも浮き彫りにする。

しかしその違和感は長い時間を経て日常に染み付き、いつしかその正体すら見失わせる。

気づけば見当違いな場所でドアをノックし続けてしまうことだって、あるだろう。

 

 

この作品の、いい意味での曖昧さの中で繰り返し印象的に描かれるのは、

 

・閉じられていたものを開いて「しこり」を取り出すというアクション

・古い時代から新しい時代への転換期であるということ

 

上記の2つだ。

最初の点に関しては、主人公の耳の下にできた「しこり」を手術で取り出すという流れはもちろんのこと、作品内でのやり取りは基本的に「しこり」、つまり障壁のようなものを取り出すことを目指していることが多いように思われるためだ。

また、2つ目の点に関しては、主人公は中学二年生であり、兄は受験勉強の真っ只中であり、両親の関係にも揺らぎが生じ始めること、また韓国という国自体が軍事政権時代やオリンピックを経て近代化を遂げようとしていることなどが象徴的である。

どんなひとだって、生きている限りは良くなっていくためにもがいて生きるものだろう。

そのために、いくつもの出会いや喪失を経験し、少しずつ成長しようとする。

しかしそこには終着点が設けられていなくて、様々な不安や悲しみが折り重なるように次々とやってくる。

ぼんやりとした予感、期待と不安の磁場の上を、それでもタイトルの「はちどり」のごとく、忙しなく羽を動かしながら低空を浮遊し続ける。

 

物語の中盤以降、映し出される画は少しずつ解放感を帯びていく。

基本的には前半と同じ場所でのやりとりを描いているのだが、閉じられていた「扉」を開いていくことでその世界の全体像は少しずつ広がっていき、やわらかな光が差し込み出す。

主人公やこの「世界」の内部に少しずつ接続していくような、手作り感が心地よいエレクトロニカの劇伴もこの作品の映画的快楽に満ち溢れた映像の心地よさを増幅する。

 

それでも全てを知ることはないが、俯瞰するような視点に少しだけ足をかけた主人公の目には、いくつもの感情や喧騒が層をなすこの世界の「不思議さ」だけが、ただはっきりとそこに存在することの確信を得る。

素敵なひとが残してくれた言葉とタバコのフレーバーを、忘れることはないだろう。

 

「変容」するラッパー、Kamui

 Kamuiというラッパーが好きだ。

 「カウボーイビバップ」や「攻殻機動隊」、「ブレードランナー」をはじめとした近未来SF的テクスチャーをそのビジュアルやリリック、サウンドにどっぷりと染み込ませた彼の存在感は「アタマ、つま先まで間違いない」←(「I am Special」収録の「Credit Girl」より引用)。

 Kamui x u.. 名義で2016年にリリースされた「Yandel City」、なかむらみなみとのユニットであるTENG GANG STARRとしての活動、また2020年末にリリースされた「YC 2」に至るまで彼はサウンドやフロウの面において何度かの変容を繰り返しながらも、その芯に宿る魂やスタンスを洗練し続けている。基本的にはLil Peep以降のエモラップとして括られることが多いのかもしれないが、エミネムの「Lose Yourself」や映画「8Mile」のコンピレーションアルバムがヒップホップにのめり込んだキッカケでもある彼のラップからは、’90年代、’00年代的な感覚も染みついているように感じられる。

 

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 だが、しかし、ネットを探しても彼について詳しく書いてある記事のようなものがなかなか見当たらない。(彼が意図的に露出を抑えているということでもあるのかもしれないが...)

なので、そんな彼の軌跡を、いくつか彼自身のアルバムについて書きながら勝手にまとめてみようと思う。

 

 

 2016年リリースの「Yandel City」でのKamuiからは、コントロール仕切れないほどに肥大してしまった彼自身の怒りや苦しみを感じる。

Yandel City

Yandel City

  • kamui x u..
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1833

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 決壊したダムからものすごい勢いで溢れ出してきた濁流のようなフロウのラップやシュールレアリスティックな印象もあるSF物語のリリック、そしてu..による、フライングロータスを連想させるようなアブストラクトなビートが45分間畳み掛けてくる。近未来のディストピア的な日本の街、Yandel City(病んでる街)の情景が雪崩落ちてくるような言葉によって描かれる。もはやその全体像が把握できないほどに膨れ上がってしまった思いは、一つひとつ説明するのではなくそのままイメージとして吐き出しきることでしか消化出来なかったのであろうことを思わせる。実際、当時の彼の精神状態はあまり良好ではなかったそう。

 アルバム終盤の曲「Beyond」で彼は物語から抜け出そうとするような、もがくようなフロウで「俺はkamui」と名乗る。

 

 

 「Yandel City」の混沌から現実に這い出たKamuiはまた新たに作品を生み出す。個人的にも一時期よく聴いたアルバムである、2018年リリースの「Cramfree.90」というあるアルバムだ。

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 「Cramfree」という単語はKamuiによる造語で、「ゆとり世代」を意味しているそう。彼自身がおそらく最も影響を受けているであろうラッパーのひとりであるケンドリックラマーの「Section.80」のタイトルを引用したものでもある。また、アルバムジャケットのオレンジと俯くように立つ彼のシルエットは、フランクオーシャンを連想させる。アルバム中盤以降のメロウな雰囲気もそれを思わせるところがあり、リリースの一ヶ月ほど前には「Nikes」の日本語でのカバーもYouTube上で公開しているので、フェイヴァリットであることは間違いないだろうと思う。

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 ラップのフロウは「Yandel City」の時とは打って変わり、鮮明で聞き取りやすい言葉の配置がされている。トラックの方も「All Eyez On Me 」というフレーズが「Gift」で引用されているように、前作と比較してもグッと90年代的なスタンダードなスタイルに寄っている。これはKamui自身がType Beatを大量に漁って形にしていったものだそう。

 それらの風味も含んだこのアルバムは私小説的な側面もあり、リリックを思い返す(Spotifyでは歌詞が表示されない)と、複雑な家庭環境や少年時代の淡いノスタルジー、かつての恋人の死について語られている。特にその恋人についての言及は「濡れた光」という終盤の楽曲でされており、この作品の大きなピークとして配置されている。

 「カウボーイビバップ」第一話のアヴァンタイトルを連想させるような鐘の音がアルバムの冒頭で鳴り、それは「濡れた光」の直前にも鳴り響く。一度沈み切った彼の魂はしかし再び次の楽曲「Free」で燃え上がる。「switch my life, switch my mind, switch myself」と何度も彼自身に言い聞かせながら、それと同時に「Just find me」と弱々しく囁くような脆さも抱えながら、彼は再び歩き出す。

 

 

 その後、抱えていた弱さと向き合った作品が、2019年リリースの「I am Special」なのではないだろうか。

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 現実へと歩みながらも、怒りをぶつけずにはいられない。彼は一体なにに対して怒り狂っているのか。それは彼が生きてきた中で見てきたこの世界の仕組みのイビツさであると同時に、彼自身の弱さに対してでもあるのかもしれない。前作でまとまったスタイルを見せたフロウは、しかしここで再び歪んだ声となって冒頭から攻撃的な側面を見せる。

 「針が止まったままの腕時計 動かしてやるからしかと見とけ 俺は誰も見下さない 代わりにみんないつか俺を見上げるのさ」というラインが、強さと弱さ、宣言と虚言というような矛盾を内包しているこのアルバムのテーマを端的に表現している。古いパンクロックのような少し曇りザラついたミックスも、荒々しさと弱さを同時に表しており、それはジャケットのデザインともリンクする。

 それでも彼は「Salvage」を試み、「I am Special」と宣言する。そう信じ続けることで、彼は死に急ぐことはなく、MY WAYを生き急ぐ。

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 ここまでの過程を辿ることで、Kamuiは初めて落ち着いた心境で自分自身を捉え直すことができたのかもしれない。それが表れているのが2020年末にリリースされた現時点での最新作である「YC2」だ。

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 タイトル中の「YC」は「Yandel City」の略であり、つまりこれはかつての物語の続編となっている。アルバムジャケットには、体の半分が機械生命体と化したようなKamuiの肖像が写されている。何度も「変容」を遂げイビツに変形した自らを、そしてかつてコントロールしきれなかった肥大した怒りや苦しみをここでついに捉えなおそうとする。

 「TETSUO」という楽曲が収録されているように、彼に多大な影響を及ぼしているであろう「AKIRA」が描いた2020年が現実に到来したことで、SFが単なる遠い未来の物語ではなくなってしまったことが、彼が自分を捉えなおそうとしたキッカケのひとつなのではないか。「もう時間がない」という焦燥感もリリックには込められている。だからこそ彼は、かつての怒りや苦しみの根源と向き合い、過去を精算することで未来を選択する余地を生み出そうとしたのではないだろうか。

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 なぜ個人的にこのような印象を持ったのかということに関して、ひとつにはボーカロイドを使用して他者の視点を取り入れたという点がある。これは、彼が自身に対して客観性を得るために取り入れられたものではないかと思う。また、このボーカロイドの声には、かつてのKamuiの無垢さや弱さが込められているのではないかとも考えている。

 もうひとつはアルバム全体のサイズ感にある。このアルバムは全12曲が2814秒に収まっており、非常にコンパクトにまとまっている印象がある。それでも、ラップのフロウのアプローチはこれまでのどの作品よりも豊富だ。トラックも基本的にはトラップ以降の感覚を汲んだものでまとまっており、軽やかですらある。キャリアを積むことで、かつての混沌をある種ポップな領域にまで押し上げることに成功している。ヴィンス ステイプルズの傑作「Big Fish Theory」をも連想させるアシッドハウスビート(Actressの「Ascending」からのサンプリング)の上で、ブチギレた怒りを軽快に乗りこなしていくような「Tesla X」や、「Cramfree.90」以降の明瞭さで感情を吐き出し尽くす「疾風」はこのアルバムのハイライトであり、これまでで最も高い到達点のひとつであると思う。

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 要するにこれは彼の今までの作品の中でも最も大衆性のある傑作に仕上がっているのだが、この作品のもうひとつのミソは、「抑制」というところにあると思う。Kamuiならきっと、「Tesla X」級のキャッチーな楽曲をもういくつか入れてしまうというようなこともできなくはなかったはずだ。しかし彼はそうせず、あえてアルバム全体のピークを最低限に絞り込むことで、安易な快楽性に回収されない「イビツさ」を意図的に創出したのだと個人的に考えている。それがこのアルバムの魅力の正体だと思う。アルバム全体の音量や音圧も、一般的なラップの楽曲よりも若干抑えられたものになっているように感じられるのは気のせいだろうか?これは安易にプレイリストに組み込まれることに対する抵抗の姿勢であるように思えてならない。

 Kamuiはどこにも迎合するようなことはしない、今までの「変容」を受け入れることで彼はその「魂」を洗練し続ける。既成の価値観、ボーダーを超えることで新たな世界へ飛んでいく。

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 Kamuiがなぜ「YC2」をこのような形に仕上げようとしたのかということに関して、もうひとつ個人的な推測を書き加えておきたい。アルバム最後の楽曲である「Hello, can you hear me」では、かつての記憶が遠のいていくことの寂しさや切なさが描かれていて、だからこそ彼はそれを忘れてしまう前に「手を差し伸べ」たのだろうと思う。この楽曲名の持つある種の「軽さ」は、彼のマインドがそれなりに良好であることの表れなのではないだろうか。あるいはここにはもう、かつての弱さに溺れる彼はいないのかもしれない。

 

 まあ、ざっと、こんな感じで好き勝手書いた。ここまで読んでいただいた方には、感謝。

 

 ちなみに、Kamuiは2019年末からはMenace無、ODETRASH、XakiMicheleといった若手をフックアップし、共にMUDOLLY RANGERSとしての活動も行なっている。2020年には奈良県出身のバンド Age Factoryの楽曲である「CLOSE EYE」のリミックスに客演しており、ミュージックビデオもある。2021年内に「YC2」のいわゆるデラックス盤である「YC2.5」のリリースも予定しているとのこと。

 個人的には「Kamui World」としてのゲーム実況を見るのがとても好きなので、そちらの方でもなにか動きがあれば嬉しいなと思っている。

 

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 あ、そうだ、これもあまり言及されてないけど、KamuiはTENG GANG STARRの頃からミュージックビデオの質がかなり高い。質が高いというのは具体的に言うと、退屈なショットがあまりないとか、編集のキレのよさとか、そういうところだろうか。映像の方でも彼が大きく関わっているようで、その方面でのセンスがすごく良いのだなと感じる。

 あとは、なんといっても彼の人柄が非常に魅力的なのだ。とてつもないエネルギーに満ち溢れている感じがしていて、正直その部分にかなり惹かれているところがある。「Kamui World」での実況もかなり面白いし、以下の動画にもその魅力が詰まっていると思う。

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 まあ、なにはともあれ、これからも応援していきたい。

変容する肉体とJUNK HEAD

先日、渋谷アップリンクで「JUNK HEAD」という映画を観た。

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堀貴秀さんという方がほとんどひとりで7年かけて制作した、SF長編ストップモーションアニメは各所で絶賛され、話題になっている。俺が大好きな宇多丸さんもラジオで絶賛していた。

「JUNK HEAD」の魅力は、映像の「グチャグチャした質感」にあると俺は考えている。

「マリガン」と呼ばれる人工生命体の「エイリアン」を連想させる造形や動き、また地底人たち(?)が独自の言語でわちゃわちゃやり取りをしている様子が、観ているうちにクセになる。

物語の構成も、おそらく意図的にではあると思うが、ぐちゃぐちゃしている。

主人公が当初持っていた目的は、あらゆるハプニングで頓挫し、新たな出会いがあり、それによって新たな目的や任務を授かることになる。紆余曲折の連続だ。

アホみたいに広大な地下世界では予測不能な事態しか起きない。

ここには、かつて様々な職種を転々としたと発言されている堀さん本人の人生観が込められているようにも思える。

そこに答えや終わりはないが、その旅の過程に豊かさを見出すことはできるのかもしれない。←(関係ないんだけど、昔ジェフミルズも同じようなこと言ってたらしいって最近本で読んだから、こんな風に書きたくなった)。

まあ、その他にもかなりしょうもないギャグや演出が連発されるのも魅力のひとつだと思う。

個人的には、「3バカ兄弟」と呼ばれる黒い三人兄弟のキャラのやり取りがとても印象的だった。

人形の可動域の問題もあるからなのか、ツッコミを入れるときになにかとドロップキックをかますのが何度もみるうちにすげー笑えてしまった。

物語の終盤にはジョンウィック的な、背面で地面に滑り込みながら敵の腹部に銃弾を打ち込むアクションをやったりもしてて、そういうしょうもないディティールをアホみたいに丁寧に再現しようとしているところに胸がアツくなる。

 

「JUNK HEAD」のテーマのひとつとして「肉体の変容」というのがあると思う。

物語の中で主人公の肉体は何度も破壊され、その度に違う人間(?)に修理され、再び動き出す。

授けられた肉体によって見た目や役割が変容していく。

そのなかで、魂だけは変わらずに同じものがそこに宿っている。

それを大事にして貫き通すことで成し遂げられることがある。

異常なほどの執念で作品を完成させた堀さんのスタンスそのものでもあると思う。

だからここには堀さん自身の「魂」が宿っている。ぐちゃぐちゃした強力な「肉体」と共にそれは俺たちのアタマん中をめちゃくちゃにする。

イキり・ゲンドウ

今泉力哉監督の「街の上で」をこの前見た。

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この人の映画は「mellow」しか見たことがなかったけど、それと比べると今作の方がテーマとかわかりやすかったと思う。

というか、わかってもらいたいという感じの作りだった。始まりの方でわかりやすくそれを提示している。

そのテーマっていうのはつまり「歴史の断絶と接続」ということだと思う。

ほとんどの人間が、教科書や本に載ることのない「忘れられていく歴史」を紡いで生きているが、それは誰かの目に触れた瞬間からその人の「現在」と接続する。

友達との会話や創作物、誰かからもらったタバコが、一度世界から断絶された「忘れられていく歴史」を現代に接続し直す。

生きている限り人間は、他の誰の目にも触れることがない物語があったということの目撃者、傍観者であり得る。

本を読む主人公の様子が繰り返し映されるのは、彼もひとりの目撃者、傍観者だからだ。

自分や誰かが忘れた物語を、他の誰かが知らないところで紡いでいるかもしれない、という。そしてそれはまた自分に戻ってきたり…。

これは今泉監督の物語論というか、人生論としても受け取れると思う。

「終わりは始まり」というような表現はよく目にするけど、それを物語内に組み込んで一つの説得力ある形にしてくれている。

「接続」されずに「断絶」された先に、また新たな「接続」がある。

この作品の始まりと終わりの主人公のありようも、見る人によっては「接続」にも「断絶」にもなり得る。これは意識的だと思う。

「mellow」を見た時から思ってたけど、今泉力也の出演女優のチョイスとか衣装、撮り方を見てると、どう考えてもこの監督はドスケベだ。

しかし、そうは言っても結局は後ろ歩きで俺の感性も「接続」してしまう。

 

 

 

で、話が変わるのだけど、「シン・エヴァンゲリオン」は結局3回見た。こんだけ見ると割と頭の中でまとまってくる。

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2時間半も必要なのかなと見る前は思ったが、物語の軸はシンジの成長にあるから、これは必要な尺だ。あいつがそんなすぐに成長したらさすがに困る。

実際、全くダラダラしてなくてかなり細かく緻密に作ってあるなという、なんとなくの印象がある。

終盤のゲンドウの自分語りのように、わざとベターっとセリフで説明していくようなシークエンスもある中で

「土の匂い」とか「S DATをじっと見つめる」、「首元にそっと触れる」というような割とさりげない仕草をじっくり積み重ねていくことで

少しずつ世界に向き直っていくシンジの描き方は丁寧でよかったと思う。

銃をぶっ放してきた鈴原サクラに対して語りかけるシンジの話し方からは、なんとなく「ジブリ的な誠実な男イズム」も感じた。意図的なのかな?

あと、わざと引いた構図で目立たないように描かれる、シンジとミサトが軽く抱き合うシーンは一番好きかもしれない。

このシーン含めて、派手な劇伴とか演出に隠すように一番大事なところはさりげなく描いてると思う。

綾波レイとの最後のやりとりでも、一番の感動ポイントは「もう一人の君は、自分の居場所を見つけたよ」ってシンジが言うところだと思ってるのだけど、ここも割と映像で面白い演出が連発されるから

最初は聞き逃してた。

あの綾波レイが自分で愛せるものを見つけて、自分の口から「ツバメ、もっと抱っこしたかった」とか言ったのが心にじんわり残ってる。

俺はSF的なものが好きだから、「あーほんとによかったなオマエ」って思った。もう言いなりにならなくていいんだもんな。

あのまま田植えで頂点までのし上がっていく綾波レイも見たいような気がしてる。

あとは、あれだな、綾波レイ渚カヲルに涙を流す場面を与えたのもよかったと思う。

今までずっと非人間的で支配されてるような感じだった彼らに、ちゃんと自分の感情を吐き出させてあげてる。

逆に物語中盤からのシンジは、人前で泣くのを意識的にやめる。ヴンダーに乗る前のシンジの目元に泣いた後が残ってるのとか、ミサトが散った後の表情なんかは、レイやカヲルとは対照的な成長の描写で面白い。

シンジは他人の想いを受け止められるようになって、レイとカヲルは彼ら自身の気持ちを感じて受け止めたり伝えられるようになる。

映画としての形をかなりイビツに変形させたりもしながら、こうしてひとりずつ送り出していく。

これはもう、いろんな意味で「サービスサービス」じゃないか、と。

 

とりあえず印象的だったところをざっくり羅列した。

この作品は、松任谷由実の曲の引用もあったように「墓標」でもある。たぶん、シンジやゲンドウが目を逸らしていた「弱さ」のそれだ。

つまらない感傷やら、甘えやら、何かジメジメとしたもの。いろんなものが当てはまるだろう。

だからこれは、今の日本に対しても、かなりグロテスクな側面がある作品だ。悩むシンジにうっかりシンクロしてた俺のような人間にとっても。

まあ、なんやかんやシンエヴァを見てから、いろんなライターの考察記事を読んだりもして、また自分で考えてみたりして、なんか、面白いというか楽しい時間を過ごせた。

「弱さ」があったからこその「接続」がここにはあって、それを認めて「誇りにしたい」と肯定することでひとつの「断絶」を果たせるのかもしれない。