今泉力哉監督の「街の上で」をこの前見た。
この人の映画は「mellow」しか見たことがなかったけど、それと比べると今作の方がテーマとかわかりやすかったと思う。
というか、わかってもらいたいという感じの作りだった。始まりの方でわかりやすくそれを提示している。
そのテーマっていうのはつまり「歴史の断絶と接続」ということだと思う。
ほとんどの人間が、教科書や本に載ることのない「忘れられていく歴史」を紡いで生きているが、それは誰かの目に触れた瞬間からその人の「現在」と接続する。
友達との会話や創作物、誰かからもらったタバコが、一度世界から断絶された「忘れられていく歴史」を現代に接続し直す。
生きている限り人間は、他の誰の目にも触れることがない物語があったということの目撃者、傍観者であり得る。
本を読む主人公の様子が繰り返し映されるのは、彼もひとりの目撃者、傍観者だからだ。
自分や誰かが忘れた物語を、他の誰かが知らないところで紡いでいるかもしれない、という。そしてそれはまた自分に戻ってきたり…。
これは今泉監督の物語論というか、人生論としても受け取れると思う。
「終わりは始まり」というような表現はよく目にするけど、それを物語内に組み込んで一つの説得力ある形にしてくれている。
「接続」されずに「断絶」された先に、また新たな「接続」がある。
この作品の始まりと終わりの主人公のありようも、見る人によっては「接続」にも「断絶」にもなり得る。これは意識的だと思う。
「mellow」を見た時から思ってたけど、今泉力也の出演女優のチョイスとか衣装、撮り方を見てると、どう考えてもこの監督はドスケベだ。
しかし、そうは言っても結局は後ろ歩きで俺の感性も「接続」してしまう。
で、話が変わるのだけど、「シン・エヴァンゲリオン」は結局3回見た。こんだけ見ると割と頭の中でまとまってくる。
2時間半も必要なのかなと見る前は思ったが、物語の軸はシンジの成長にあるから、これは必要な尺だ。あいつがそんなすぐに成長したらさすがに困る。
実際、全くダラダラしてなくてかなり細かく緻密に作ってあるなという、なんとなくの印象がある。
終盤のゲンドウの自分語りのように、わざとベターっとセリフで説明していくようなシークエンスもある中で
「土の匂い」とか「S DATをじっと見つめる」、「首元にそっと触れる」というような割とさりげない仕草をじっくり積み重ねていくことで
少しずつ世界に向き直っていくシンジの描き方は丁寧でよかったと思う。
銃をぶっ放してきた鈴原サクラに対して語りかけるシンジの話し方からは、なんとなく「ジブリ的な誠実な男イズム」も感じた。意図的なのかな?
あと、わざと引いた構図で目立たないように描かれる、シンジとミサトが軽く抱き合うシーンは一番好きかもしれない。
このシーン含めて、派手な劇伴とか演出に隠すように一番大事なところはさりげなく描いてると思う。
綾波レイとの最後のやりとりでも、一番の感動ポイントは「もう一人の君は、自分の居場所を見つけたよ」ってシンジが言うところだと思ってるのだけど、ここも割と映像で面白い演出が連発されるから
最初は聞き逃してた。
あの綾波レイが自分で愛せるものを見つけて、自分の口から「ツバメ、もっと抱っこしたかった」とか言ったのが心にじんわり残ってる。
俺はSF的なものが好きだから、「あーほんとによかったなオマエ」って思った。もう言いなりにならなくていいんだもんな。
あのまま田植えで頂点までのし上がっていく綾波レイも見たいような気がしてる。
あとは、あれだな、綾波レイと渚カヲルに涙を流す場面を与えたのもよかったと思う。
今までずっと非人間的で支配されてるような感じだった彼らに、ちゃんと自分の感情を吐き出させてあげてる。
逆に物語中盤からのシンジは、人前で泣くのを意識的にやめる。ヴンダーに乗る前のシンジの目元に泣いた後が残ってるのとか、ミサトが散った後の表情なんかは、レイやカヲルとは対照的な成長の描写で面白い。
シンジは他人の想いを受け止められるようになって、レイとカヲルは彼ら自身の気持ちを感じて受け止めたり伝えられるようになる。
映画としての形をかなりイビツに変形させたりもしながら、こうしてひとりずつ送り出していく。
これはもう、いろんな意味で「サービスサービス」じゃないか、と。
とりあえず印象的だったところをざっくり羅列した。
この作品は、松任谷由実の曲の引用もあったように「墓標」でもある。たぶん、シンジやゲンドウが目を逸らしていた「弱さ」のそれだ。
つまらない感傷やら、甘えやら、何かジメジメとしたもの。いろんなものが当てはまるだろう。
だからこれは、今の日本に対しても、かなりグロテスクな側面がある作品だ。悩むシンジにうっかりシンクロしてた俺のような人間にとっても。
まあ、なんやかんやシンエヴァを見てから、いろんなライターの考察記事を読んだりもして、また自分で考えてみたりして、なんか、面白いというか楽しい時間を過ごせた。
「弱さ」があったからこその「接続」がここにはあって、それを認めて「誇りにしたい」と肯定することでひとつの「断絶」を果たせるのかもしれない。