没 ~Botsu~ Vol.2

涼は遅番として出勤し、夏樹に引き継ぎのやり取りをしてもらえるように頼んだ。

「それじゃ、よろしくお願いします」と準備が整った涼がいうと、夏樹が話し始めた。

「今日は全体的に目立った変わりはないよ。Sさんも今の所落ち着いて他のご利用者さんとテレビ見てるから、まあ見守りだけ引き続き気をつけてくれれば大丈夫だと思う」と夏樹は自分のメモ帳や排泄管理表に眼を通しながら話していた。

「Sさんはパット交換もイケた?」と涼。

「あー、それは午前中に隣のユニットでお風呂やってもらえたから、大丈夫だと思う。おやつの直前くらいにまたトイレ誘導いけたらいいかも」

「わかった、ありがとう」

「トイレ誘導と声かけも昼食前にやってるから、そんなに急がないで大丈夫よ。表にもう書いてあるから見といて。あと、口腔ケアよろしくね」

「うん」

あ、そうだ。と急に夏樹がニヤニヤし始め「昨日も例の公園行ったの?」と涼に聞いた。

「うん、行ったよ」と涼。

「よくそんな面倒臭いことするよね。あたしだったら自分の分だけ食ってさっさと捨てちゃうけどね」と夏樹。

「いや、でもなんか気になっちゃうんだよね、どうしても。飯捨てるのは罪悪感がヤバくて」

「常識的に考えたら、まあそうなるか。ていうか、毎日どんだけの量が捨てられてるんだろね、この世界で?」と夏樹は排泄管理表に記入漏れがないかサラッと確認しながら言った。

「ちょっとした島作れそうだよね。そんな島行きたくもないけど」と涼もその様子を目で追いながら言った。

「あは、それウケる。てか、あたしこれからお昼食べるんだからキモい想像させないで」

「ごめん。ていうか、そろそろ休憩行きなよ。あと俺やっとくから」と涼は作業に取り掛かろうと目線を上げると夏樹と目が合った。

「あのさ、今度あたしも公園一緒に行ってもいい?」と夏樹が言ったので、涼は少し驚いたが特に断る理由もなくボチボチ仕事しないとと少し急ぎ始めていたのもあって「いいよ」と軽い感じで返した。

「オッケー、楽しみにしてるね」

そういうと夏樹はキッチン脇の棚から小さめのトートバッグを取り出して、「じゃ、あとよろしくね」というとユニットのスライドドアを開けてエレベーターホールに向かっていった。

俺って、夏樹と遊んだりするようなこと今までなかったよな、そういや女の子と遊ぶなんて随分久々だなとぼんやり考えながら涼は仕事を始めた。少しだけ胸があたたかいような気がした。

 

Sさんは歩行にほとんど問題ないが、認知症が進行しており徘徊を繰り返してしまうことがしばしばあった。そのため、施設外に飛び出してしまうことがないよう常に見守りが欠かせなかった。

今日は落ち着いているようなので、涼は少し距離を置いて常に見守れるようにしながら、先ほど終わった昼食の食器洗いを進めていった。

一通り食器の手洗いを終え、それらを乾燥機能付きの食洗機の中に並べたあとフタを閉じて乾燥モードのスイッチを押した。機械は少し控えめに「ウオーン」というような鈍い音を出しながら動き始めた。

その後は引き続きリビングで他の利用者とソファに座ってテレビを見ているSさんの見守りをしながら、歩行や移動に介助が必要な人たちをトイレに連れていったり歯磨きをしてもらったりした。

涼はこれらの介助で必要な技術や知識は、ほとんど夏樹に教えてもらった。

夏樹は同い年だが介護の専門学校を出ているので、四年制の私立大学出で介護未経験の涼にとっては実質先輩のようなものだった。勤務中の会話では涼の話す言葉に敬語が混ざってしまうこともあった。もちろん他にも世話になった同僚や先輩はいたが、勤務時間以外のタイミングでも気楽に相談に乗ってくれたのは夏樹くらいだった。

食洗機がウォンウォン鳴り、歯や入れ歯を磨く音があちこちの個室から響く。Sさんは穏やかな表情で昼下がりのワイドショーを眺めている。壊れにくい椅子を人気芸人が紹介している様子をじっと見つめていた。様々な利用者が訪れるショートステイの中でこういう均衡のとれたような状況の中にいるとき、涼は少しだけ幸福な気持ちになれるような気がした。カオスにまみれた社会の中でうまいことパズルのピースのひとつとして嵌ることができているような安心感があるのだと思う。

 

昼休憩から戻ってきた夏樹とは夕方頃まで共に業務をこなしていった。

16時過ぎごろに涼がユニットのフロアの掃除をある程度済ましてしまう頃には、夏樹も朝からの利用者のバイタル数値や排泄状況をパソコンに打ち込む作業を終えていた。早番の彼女はもう退勤する時間だ。

「もう毎日こんな感じで穏やかなら最高なのにね」とパソコン用の椅子から立ち上がり、伸びをしながら夏樹が言った。

「本当にね。記録ありがと。お疲れ」と涼は排泄表を見ながら答えた。このタイミングで夕食前のトイレ誘導の順序をなんとなく考えておくためだ。

「うん。ていうか、さっきの公園のやつはいつ行くの?あたしが休みで涼ちゃん遅番の日になるよねー」と夏樹は早速シフト表を確認しながらいう。

「あった。いちばん早いので28日だ。どう?」と夏樹。

「うん。次の日俺夜勤だし全然余裕。そこにしよう」と涼。

「よし、じゃあ決まりだね」と夏樹はスマホを操作しながら言った。

ところでさ、と涼が切り出した。「なんで一緒に行こうと思ったの?」

「あー、それはあれ。まえに話してくれた佐々木さんのことが気になってたっていうか。あたしこれでもピアノは弾けるから、音楽療法とかちょっと興味あるんだよね」と夏樹。

そっか、そういやそんな話したね、と涼は返した。

「わかった、じゃあ佐々木さんにも軽くそのこと伝えておくよ。あの人も忙しくて毎回これるわけじゃないから、もしかしたら予定合わないかもしれないけど、なんかいい話あったら教えてもらうようにするから」

「それマジありがたい。そういう感じで頼むわ」

そんじゃあと遅番よろしくね、というと夏樹は元気な様子で帰っていった。早番だったのに、よくあんなカラッとしたテンション保てるよなあと涼は思った。いつもそういう感じだった。

 

涼にとって唯一の懸念だったSさんも今日は一日通して穏やかだったので難なく遅番を終えることが出来た。

夜勤の菊池さんに引き継いでしまうと、さっさと更衣室に入って着替えを済まし、ロードバイクにまたがって家路についた。すっかり春らしくなって、透き通った夜風が懐かしいような匂いを運んでいた。