没 ~Botsu~ Vol.1

「涼ちゃん、マスクは不織布のやつがいいわよ」

小田涼という男が出かけようとする間際、彼の母がそんなことを言ったが彼は特に気にせず

「まあ、今日はこれでいくわ」

と言い残してドアを開けた。

ロードバイクに跨って、彼の勤める職場まで走らせる。ノースフェイスのマウンテンパーカーをガシガシ鳴らしながらひた走る。

マッドな気分があった。この心を何か形にして生み出したかった。だが彼には何も手段が思い浮かばなかった。だから走っていた。今日もまた。

 

老人ホームの職員用更衣室で着替え終わると、涼は自分が担当するユニットのフロアへと向かった。

到着すると、夜勤の夏樹が起床介助をほとんど完了させており、彼女はその後始末をしている最中だった。

「おはようございます」と涼が挨拶する。

「あ、小田くん。おはよう」と夜勤終了間際でも快活な調子で夏樹が返事を返す。

 

夜勤の夏樹から早番の涼への引き継ぎが始まる。

「Kさんは特にお変わりなし。今朝も声かけしてあるのでご自身でダイニングの方まで来られると思います」と夏樹。

「Yさん、今回はどうだった?」と涼。

「あーYさんね。またトイレ多くて、続けて寝たのせいぜい2時間くらいよ。日中はふらつきとか気をつけて」

そんな感じで利用者の状態を確認していく。大きな変わりは特になかった。涼は引き継ぎを終えると早速利用者の朝食盛り付けの準備に取り掛かる。

 

夕方、仕事を終え更衣室で私服に着替え終わると、涼はロードバイクにまたがって施設近くの大きな公園に向かった。

ちょっとした湖があって、カップルがボートに乗ったりしている。でも涼が用のある人間はそういうタイプではない。

涼が用のあるような人間は、人気のない広場の片隅とか、木がたくさん植わってるあたりの片隅とか、冷たいコンクリートの片隅とかに段ボールを敷いてる人たちだった。

そんな感じの人たちに、涼は信頼されていたし、涼も楽しく接していた。彼がいつも施設の余った飯を持ってきては彼らに振る舞っていた。ゲラゲラ笑い話をしながら、なんなら涼も一緒にその残った飯を食いながらしばらく共に過ごした。そんな日々をここ1年間くらい続けていた。飯がもったいないから。その思いが、涼と彼らを繋いだ。

「小林さんも、遠慮しないで食べてよ、そら豆ご飯」と涼は小林という控えめな男性にご飯をすすめる。

「悪いねえ、一日中ぼんやりしてるこんなのに」

「いいんだよ。小林さん、別に悪いことしたわけじゃないでしょ?」

談笑しながら皆でご飯を食べていると、ボランティア仲間の佐々木さんもビールを持ってやってきた。

「いやーお待たせ」と佐々木さん。

「もー待ってたよ!やっぱ酒ないと始まんないっすから!」とホームレスの藤木さんがいう。

「おい!あんま調子乗んなよ!俺ら一銭も出してねえのに買ってきてくれてんだ!」と真面目に諭したのは、リーダー的存在の家入さんだ。

「わかってますってえ!冗談っすよ冗談」とケラケラ笑う藤木さんであった。

そんなこんなで酒も入ってさらに宴会は盛り上がった。

 

「今日もありがとうな、メシ。介護なんてなかなか大変だろうに」と家入さんが涼のそばに腰掛ける。

「いえいえ。意外と残っちゃうんですよね。自分だけで食うのももったいないんで」

「疲れてる時はさっさと帰って休めよ」

「俺これでも楽しんでるんすよ、この時間。でも気使ってくれてありがとうです」

 

結構いい時間になってきたので涼は家入さんたちに別れを告げ、ロードバイクにまたがり家に帰った。

家ではリビングのホットカーペットの上で母親がマグロのように横だおれになって寝ていた。

涼は起こさないようにあまり音を立てないようにしながら手洗いうがいをする。

寝ているのかと思っていたら、母は寝ながらそっと屁をした。涼は風呂に入った。

 

風呂から出て、食事を済ませると、涼はMacBookを開いてYouTubeを見始めた。

いくつかのお気に入りのミュージックビデオを毎日繰り返し見る習慣が涼にはある。ちょっとした癒しタイムとでも言えるだろうか。

涼が社会人になった時期辺りからラップミュージックがトレンドになり始めたこともあり、彼もラップを聴くようになっていた。

それでもまだ聴き始めなので詳しいわけでもなく、毎日少しずつ新しいラッパーの名前を知ったり曲を聴いたり、そんな感じだった。

だが、いくらラップに詳しくなったところで、特に涼の周りにラップ好きの人間がいるわけでもなかった。そもそも音楽に興味あるやつがいなかった。人前で屁をこけるやつしか彼の周りにはいなかった。彼自身も若干その気があった。

 

翌日、涼は遅番だったので、午前は少し遅めに起きた。

朝食を食べたら電気ポットでお湯を沸かしてコーヒーを淹れる、それを飲みながら小説を読む。これが涼の朝の過ごし方だ。朝は本を読んだ方が調子を掴めるから、ということらしい。

椅子に深くもたれかかり、ほぼ寝るような体勢になりながら本を読んでいるとよく屁がでる。涼はそれを少し気に入っている。

そんな感じで本を読んでいると、彼はだんだんウトウトぼんやりした意識になってきて、そのうち目を閉じてしまった。

 

ふと気がつくと、涼は抽象的な真っ白い感じの空間に横たわっていた。

起き上がり、あたりを見回してみると、夢見さんが近づいてきていた。

「また来たんだね」と白いゆったりとしたサイズ感の衣服に身を包んだ夢見さんが声をかけてきた。この人は見た目では性別が混じり合っているような感じがしたが、涼は特に気にしなかった。嫌な雰囲気の人ではなかったから。そもそも夢見さんという名前も涼が勝手に心の中でこのひとにつけた名前だ。

「はい、またウトウトしちゃって」と涼。

「今はなんの本を読んでるの?」

SF小説なんですけど、ちょっと古いやつで、砂の惑星が舞台なんです」

「へえ、そうなんだ。つい最近ハマった哲学の本はどうだったの?」

「あ…あれはまだ途中っすね。むずくて」

「まあ、ゆっくり読めばいいんじゃない?あなたはまだ若いから」

「そうかな?最近はそれもよくわからなくなってきたよ。なんだか毎日荒野を彷徨ってるような気分だよ」

「それは大袈裟よ。本当に荒野彷徨ってたらとっくに干からびてる。いまある潤いを大切になさい」

「なんかいい感じの言葉をありがとう。哲学の方も少しずつ読むようにするよ」

「無理せず気負いすぎずにいけばいいのよ。死ぬまで生きるだけ」

ちょっと説教くさいなと思いながらも、そうですよね、と涼は返事をしようとした。が、なぜか喉につっかえて言葉が出なくなってきた。

「もうそろそろ戻る時間よ。あなたには現実の方の勤めがあるからね。また、揺らぎの瞬間に会いましょう」

その言葉とともに周りの空間がゆっくりとしぼんでいく。

そして涼はゆっくりと目を覚ました。姿勢を正して立ち上がり、身支度を済まして遅番の勤務に向かう。