あのこは貴族

岨手由貴子監督の「あのこは貴族」を観た。

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金で仕切りが出来ている階層社会、男性原理主義的なパワーを中心に回り続ける資本主義社会において、人間はただの記号として消費される。

「権利配分」としての側面しか持たないような婚約の中にはもはや人間は誰もいない。挿げ替えが簡単に繰り返されていく。

全ての人間が加害者であり被害者でもある。尽きることのない苦悩のスパイラルにいとも簡単に掠め取られる。

 

移動手段をモチーフとして扱った演出が今作の中心人物となる榛原華子と時岡美紀のキャラクターや態度の変化を表すものとして印象的だった。

アヴァンタイトルでタクシーに乗る、いわゆる「お嬢様」の華子にはまだ行き先を自分でコントロールする力がない。

運転手を同等の人間と認識していないような節があるところは少し不気味でもある。

それに対して地方出の美紀は都会の中を自転車で駆け抜ける。行き先を自分でコントロールしようとする強い意志が感じられる。

また、華子が友人の里英と「にけつ」で東京のど真ん中を駆ける場面や華子が逸子と三輪車に乗って遊ぶ場面は、規定の枠組みの外側からでしか見つけられない喜びもあるということを提示しているように思われる。

 

「そっちの世界とウチの地元ってなんか似てるね」という台詞を、美紀が華子に語りかける場面がある。

型にはめられた世界が縦に層をなしている社会の中で、しかし二人は夜のベランダで肩を並べて同じ景色を眺めている。

物語のラストの場面とも呼応する象徴的なシークエンスだ。

階層やしがらみを取っ払って人を繋ぐものは存在する。たとえほんの短い時間であっても。言葉で語ると死ぬほど陳腐になりかねないその根源的な喜びのなかに、ひとの希望がある。

 

手を振る動作やソファにもたれかかる姿勢、視線のやりとりでひとの温もりや距離感の縮まりを表現する演出力の高さは今作の白眉とも言えるのではないだろうか。

序盤と終盤との対比で浮かび上がるそれに、映画を観る喜びを感じずにはいられない。