首藤凛監督の初の商業ベース長編作品である「ひらいて」をこの前観た。
他者に想いを伝えるということは、命懸けの飛躍だ。
どんな出自の人間であっても、日常的に使用している言語が同じであっても、自分と全く同じ言語体系を持つ人間は誰一人としていない。
それぞれの人間がそれまで見て触れて感じた言語や知識、論理の蓄積がその人の世界を構築していて、そこはもう不可侵領域になっている。
だからこそ他者に向かって語りかける行為は、自分の世界の外側にどこまでも広がる暗闇へ跳躍を試みる行為なのだ。
飛んだ先に理想の着地点がある保証はない。それでも飛ぶことを止めはしない。「ひらいて」という祈りとともに、飛ぶのだ。
この作品は、同じ動きを対比的に見せる構造が繰り返し示されることで物語の推進力が生まれている。
さっき話した言葉と、その後発した言葉。昼と夜での自転車の乗り方の違い。カラオケで主人公の愛が歌う曲と美雪が選んだ曲の、時代性やリリックの差異。
この対比構造が繰り返し示される構造はまるで、劇中のモチーフとしても存在する折り紙のようだ。先ほどまで見つめていた面は折り返されることで裏側に周り、新たな側面が立ち現れる。観客はそれを追いかけながら、愛という人物を少しずつ知る。
愛は穏やかに絶望している。
社会性は持ち合わせているが、地方暮らしに未来を見出すことができていない。
そんな彼女はしかし、たとえと美雪の中に「ここではないどこか」を見ている。
教室の椅子に座りながらじっとたとえを見つめる愛の姿は、「ときめき」というよりは「渇望」に近い。
HiHi Jetsのメンバーである佐間龍斗演じるたとえは、ほとんど抽象的な存在に近い。髪型や服装が地味でも、浮世離れした透明感が滲み出ている。このための配役であったのだろうと思う。
愛はたとえの「肉体」ではなく「精神」を求める。
一方で、愛は美雪の「肉体」を求める。
芋生悠演じる美雪は、制服を着ると若干違和感が生じてしまうほど顔立ちが大人っぽい。
痩せ細った体は透明感をまとっている。
カラオケボックスでのキスは愛の中の「愛」の境界線を滲ませていく。自分が持っていないものにどうしようもなく惹かれていく。
愛の大人っぽい側面、実は真っ直ぐな部分、落ち着いてるフリをして必死な表情が乱反射する。
「(もしかしたらあるかもしれない)ここではないどこか」への希望を人間は捨てられない。
もしそれを捨ててしまったら、人間はシステムの奴隷になるだけだ。損得勘定だけで他人を切り捨て、テンプレートのフレーズを吐き出すただの機械になる。
この作品の中心にいる、まだ社会に染まりきっていない高校生たちには「ここではないどこか」を強く信じる力がある。だからこの作品は希望を求める力にあふれている。その力は様々な方向に飛び出していこうともがき続ける。
どうして人は生きていくのか。そこに理由はない。ただ、「生きている」という事実性だけがそこにある。「ここにはないなにか」が欲しいのなら、飛ぶしかない。どこまでも広がる暗闇に向かって、命をかけて跳躍する。
硬く閉じられていた両手がひらかれ/ひらいたその瞬間、愛の未来が「ひらかれ」ることを祈るばかりである。