「パリ13区」鑑賞後メモ

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 「その着せ替え人形は恋をする」において印象的だったのは「距離」についての描写で、第二話なんかは長さを計測すること自体が物語になってもいた。なりたいものになろうとすること、わかり合おうとすることは「距離」との闘いなのだということを五条くんや喜多川さんが教えてくれた。エンドロールのアニメーションではふたりが宇宙服を着ていて、どんなに仲が良くても好きであっても完全な理解には追いつけないという厳しさを示すものであったこと、また、そうであっても少しでもその存在に近づこうとするエネルギーの爆発が恋なんじゃないのかと言わんばかりにギュッと寄り添い合うふたりにも毎回勝手にグッときておりました。個人的に何故かアニメのOPやEDをスキップするのは抵抗があって繰り返し見てしまうのでもうふたりのシルエットが脳みそに焼きついて涙が止まりません(?)

 「パリ13区」は冒頭から常にカメラが動いているショットがほとんどの割合を占めていて、それはまるで無意識に安らぎの場を求めてそこに接続しようと夜な夜な交わるエミリー(ルーシー・チャン)や高校教師であるカミーユ(マキタ・サンバ)らの心情を反映しているものであったように思える。冒頭から何度もカマし続ける彼らの関係性と後半における30代のノラ(ノエミー・メルラン)とネットにおいてポルノスターのアンバー・スウィート(ジェニー・ベス)のそれとは対になっていて、それはラストにおいてやはり全く違う着地を見せることになる。クローズアップで映し出される受話器のショットからは男性性に対してどうしても埋め難い距離を感じざるを得ない女性側の視点が盛り込まれているのを感じ取ることが出来たし、そこには厳しさも込められているように思えた。カミーユの性的に奔放な側面は母を亡くしたことが結びついていたのであろうこと、その母を介護する時に使用していた車椅子を上手く折り畳むことが出来ないでいるというアクションひとつで彼が男性としての性的な主導権を譲る寛容さに欠けていることや母に対しての思いに折り合いをつけられずにいることを端的に示して見せた一連のシークエンスは正直こちらも胸が痛んだ。あと、個人的に面白かったのが、主に前半部分で多く見られるセックスの映し方がすごいAVっぽかったことで、これも後で考えると男性の主観的な側面を反映したものだったのかなと。そういや、「着せ恋」を思い出したのはノラとアンバーがそれぞれの部屋のベッドに横たわりながらモニター越しに談笑しているショットがあったからだったり。

 フランス映画ではあるけれど終始早めのテンポ感で物語が進んでいくので、色々とドイヒーなやりとりが多いながらも陽気で軽快な雰囲気がある。友達という関係性がベースにあることで安らぎを得ることが出来るという点において「その道の向こうに」との共通点を見出すことも出来るが、こっちの方が厳しさを感じる。自分が男だからだろうか。エミリーもすごい苦労しているけれどとりあえず、また「着せ恋」観るか。

「その道の向こうに」鑑賞後メモ

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 Tohjiが嫌いな冬がいよいよ本格的に始まろうとしているなと痛感せざるを得ない寒さに最近は震えながら過ごしている。まだ暑かった頃には毎日繰り返し”ULTRA RARE”とか”Super Ocean Man”のMVを見ていたけれど、さすがに今見ると風や水が冷たそうだなあなんて思ってしまう。当の本人はいまどんな気持ちで過ごしているのだろうかとふと気になったり。ネットにファンが上げていた夏のワンマンライブの動画を見てみたら、「お前ら、そんな調子じゃ秋来ちゃうよ〜」と観客を煽っていて笑えた。Tohjiは気の合う仲間たちとの「ゆるやかな繋がり」を”MALL(=ショッピングモール)”というフレーズで表現していて、それは彼が好んで用いる水のイメージのしなやかさとも繋がっているように感じる。正規メンバーやサポートメンバーといったような人間関係を規定する概念を退けることでより風通しのよい有機的な関係性、即ちコレクティブを築こうとする試みはミレニアル世代以降のアーティストの間ではすでに広まっているけれど、皆が少しずつ違う方向を見ながらもひとつの空間を共有している人間たちを”MALL”という言葉で形容するTohjiには小市民的な感覚に寄り添おうとする視点もあるように思える。

 「その道の向こうに」においても水が「しなやかさ」のモチーフとして繰り返し現れるが、それは主人公であるリンジージェニファー・ローレンス)やジェームズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)らが抱えるトラウマに対して有効なスタンスのひとつとして示される。アフガニスタンからの帰還兵であるリンジーは現地で脳出血を伴う外傷を負い退役を余儀なくされ、精神面での疾患を抱えたまま地元であるニューオーリンズに戻る。そこで偶然歳の近いジェームズと出会うのだけれど、物語が進むうちに実はふたりとも自動車が絡んだ事件や事故のトラウマを共通して抱えていることに気づく。リンジーはジェームズとの関係性を軸に今まで意図的に距離をとっていた母や他の家族との関係性を改めて見つめ直していくようにもなっていくのだけれど、そのしがらみを少しずつ解いてくような段階において水のモチーフはやはり象徴的に映されている。他者との関係性においてしなやかであること、規定された型に当てはまることから距離をとることが大事で、それによって少しだけ明るい未来を感じ取れるようになっていくのだと。作品冒頭のショットはリンジーの横顔にのみピントが当たっていて周りの景色が全てボヤけており、完全に自意識に埋没している彼女の心を表したものになっているが、ラストの彼女は「友達」を真っ直ぐ見つめている。

 リンジーがいつ体調を崩してしまうか分からない緊張感が常にありながらもこの作品のトーンは最初から最後まで柔らかく優しい。しかし、それでも少し深いところに潜るとそこには重い感情や記憶の層がいくつも折り重なっている。ひとの胸の中の誰にも触れられない場所、そこに対して有効な手助けをすることや限りなく完璧な理解を追い求めることは不可能に近いのかもしれないが、「ゆるやかな繋がり」の中で少しずつ水面に波動を走らせるように温もりを伝え合うことが出来るのなら、先の見えないこの旅路を未来と呼んでもいいと思えるようになるのだろうか。

 話は変わるけれど、最近巻き起こった中国のゼロコロナ政策抗議デモにおいても「Be Water」というスローガンが掲げられていて、それが市民の間でのゆるやかな連帯を促していた。ブルース・リー由来のフレーズらしい。

 ところでジェニファー・ローレンスを見ると何故か山﨑邦正を思い出してしまうのはふたりとも目元が悲しげだから、なのかな。

「すずめの戸締まり」鑑賞後メモ

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 「新時代」というフレーズが作品鑑賞後になんとなく思い浮かんだ。ワンピースの映画は観ていないのだけれどAdoによる「新時代」は何度か聴いたことがあって、それは個人的に大好きなラッパーであるKamuiが「あれは喰らった」というようなことを以前話していたからだった。「この世とメタモルフォーゼ」するが如く新海誠の作品は人物や物のサイズ感、動き、画面の構図などがぐっと実写映画寄りのアプローチに近づいており、「君の名は。」と「天気の子」においては東北の震災や気候変動を意識させる描写を絡めていくことで現実社会に対してのアクチュアリティをより高めていった。しかし、それでもそれらの作品において最大のカタルシスが生まれる瞬間は「煌びやかな嘘」が現実を食い破る瞬間であり、それは新海誠監督自身が物語や創造性、ピュアネスというものを尋常ではない思いで肯定しようとしていることを象徴的に示していたと思う。実際、「君の名は。」において派手に転んだあとの三葉が手のひらに書いてある文字に気づく瞬間や、「天気の子」で帆高が新宿を目指して線路上を駆け抜けていく一連のシークエンスは個人的にも何故か叫び出しそうになる程にエモーションが高まってしまう。

 とまあ、そういった流れを踏まえて最新作「すずめの戸締まり」を鑑賞するとこちらは完全に「煌びやかな嘘」と現実とのバランスが反転しているような印象を受けた。フィクションへの没入感を明らかに削ぐであろう、何度も鳴り響く緊急地震速報のアラームは意図的に配置されたものであるだろうし、直近の2作においても印象的でお家芸ともいえるであろうハイテンポに畳み掛けるコミカルなシークエンスは今作では鳴りを潜めており、物語のテンポ感は割とゆったりとしたものになっている。ポップソングの引用やRADWIMPSによる劇伴がバンドとしての存在感を後退させストリングスやエレクトロニクスの割合を増していることで物語上の演出とより絡み合うようなものになっているという点においても実写映画、というか現実の日本社会に対して接続しようとする意思はこれまで以上に強いものになっていると感じられた。

 この作品が今まで以上に現実に接近することになった背景には「君の名は。」公開時に一定数あった「起きたことを無かったことにする」という物語のプロットに対しての批判に向き合おうとする監督の意志が含まれているそうで、そう考えると「君の名は。」のバランスを反転させたものが今作という見方も出来るように思える。鈴芽が東京の上空でミミズに要石を突き刺す場面などは「天気の子」との対比として特に象徴的であったし、どんな人間であっても胸の内に抱えている過去という「幻想」をあるべき場所に収め平穏を取り戻すという流れはフィクションにより浮かされた感覚を冷ましていく行程とも読み取れるだろう。そこには確かに多くの人々が息づいているということを実感させるためのロードムービーという物語の基本構造があり、東北の震災により孤児になった、あるいは命を落としてしまった子供たちの象徴のようなダイジンが最終的には鈴芽の子供になれなかったことを悲しみながらも東北の大地に落ち着くのは監督自身による悼む気持ちの表れであろう。「シン・エヴァンゲリオン」におけるシンジ宜しく「受け取ったものを返す」ということが、「戸締まり」ということなのかな、と。

 そういえば緑のパーカーを着てこの作品を見にいったのだけど、鈴芽の制服も緑が基調になっていてあれはいうまでもなく「千と千尋」モチーフとして使っているのだと思うし、そうなると草太はハクでダイジンはカオナシかな?なんて考えてみたり。だとするとダイジンが辿る道筋は、同じく行き場を無くした幼年期の記憶の象徴のようなカオナシが銭婆の家に居場所を見出す結末とも重ねることが出来たりもする。最後の方の場面とかはかなり露骨に同じ雰囲気醸し出していたし。それでも、「千と千尋の神隠し」が温泉宿を牛耳る湯婆婆と銭婆の対比によって日本とアメリカ社会との対比や日本社会の強迫観念的な側面を描き出していたことを思うと「すずめの戸締まり」においてはそこまでの広い視点は含まれていなかったようにも思えてしまった。

 なんて、後ろ向きな内容で終えるのもアレなのでもう少しポジティブな方向へ。単純に今までの作品と違うトーンに舵を切ってみせたのはとても健康的なことのようにも思えるし、単純に今後の作品において演出面がよりブラッシュアップされていくことがあればいいなと思っている。当然多くの利権が絡んでいるであろうから色々と不自由な面もあるのかもしれないが、個人的にはより現代的な実写映画のアプローチに寄せたキレのあるものが観たい。説明セリフ皆無でアクションで鮮やかに思想を提示してくれるようなそれを。あとは、新海誠作品において最も重要な恋という要素がこの作品においては未来を象徴するものとして描かれていたことが最もグッと来たポイントかなと。恋は未来に対して様々な希望を抱いていく行為であって、それはまるで果てしなく眼前に広がる暗闇に向かって光り輝くボールをなるべく遠くまで放り投げていくようなことだとも思うのだけど、この作品においてはそういった想いがより広範囲の多数の人々の間で絡み合うことで新しい希望、すなわち「新時代」を始めようとする構造になっている。鈴芽はクライマックスの場面においてそれを「未来」と呼んだのだと考えている。

「宮松と山下」鑑賞後メモ

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 演技の能力の高さというよりもとにかく…顔、だろうか。俳優の演技としてのエゴを限りなく抑え込んだが故に滲み出した香川照之自身の抱えているなにかが物語を駆動させていく。作品の構造自体もそうだけれど、なにより香川照之と宮松、そして山下という役柄の境目すら曖昧になっている。例の事件の報道以来、香川照之のパーソナリティについて言及するようなものをいくつか目にしたり聞いたりしたような気もするが、「宮松と山下」を鑑賞したことでなにか表層的なものにはとどまらない彼の中の深淵を覗いてしまったような気持ちになってしまった。正直、ひとりで食事を無表情のまま黙々と済ましていく彼の様子を見ているだけでものすごい心が満たされてしまったし、あらゆる表現においてあれほどまでにリアリティを持って孤独というものを体現しているものは少なくともここ最近見ていなかったと思う。ビアガーデンでの演技の撮影において声をかけられる瞬間、または撮影所の外で昔の同僚と久々に顔を合わせた瞬間の表情の移り変わり方はまるで孤独という沼からゆっくりと地表に這い出してくるヌメっとした爬虫類生物のようで(昆虫のようにはカラッとしていなかった…)、それを見れただけでもお金を出して劇場に来た価値は十分すぎるほどにあったと言える。

 とまあ、いきなり顔についての話だけで走り始めてしまったけれど、この作品はまず冒頭から瓦屋根のクローズアップが映される。それからも何度かカットを割ってはいくつかのパターンで瓦屋根を映していく。最初の数十秒間のうちから作品の全体像を把握するのが困難であり、この宙吊りのような感覚は中盤の方まで持続されることになる。宮松(香川照之)はどこまでを演じているのか、その境目は彼についての描写が少しずつ積み重なることで徐々にハッキリとしてくるがとにかく編集や演出がキレキレなのでおそらくほとんどの人が何度も騙されることにはなると思う。しかしこれが単純に楽しいのでその度に思わず笑ってしまった。

 ロープウェイが「宙吊りの主体性」を表すモチーフとして登場するが、大きな円盤状の部品が回転してロープウェイを駆動させている様や、始まりと終わりがあるという点で映画そのものや映写機の構造を模してもいる。物語の後半で山下(香川照之)が「タクシーの運転手は自分で行き先を決めなくてもいい」という旨の台詞を言うのだけど、それはやはり映画の心地よさにも通じているよなと感じ、作品のテーマと映画という表現手段がとてつもなく合致している印象を受けずにはいられなかった。

 しかし後半ではその「宙吊りの主体性」の心地よさに浸る人間に冷や水をかけるような現実が突きつけられる。人は何かを演じることでただの「点」になることが出来て、なにか大きな装置の部品のひとつに擬態していく。「決められた形に自分を当てはめていく作業」においてはその人自身の歴史や文脈が付与されることはないため、ある種の居心地のよさのようなものが生じてくることがある。労働やスポーツ、その他あらゆる趣味がもたらす効果としてそれはポジティブな印象を伴って語られることも多いと思うが、意図的に自分自身を健忘症のような状態に持っていってしまいたいという願望を持つ人も少なくはないと思う。宮松はその後者の方であったというわけだ。

 どうして香川照之が主演なのか、というある意味最大の注目ポイントが後半においてゆっくりと煙の如く立ち上り始める。が、しかし、黒沢清の「クリーピー 偽りの隣人」以降のトラウマ的な気持ち悪さが「待ってました!」とばかりにただただぶちまけられるというわけでもないのがこの作品の不思議というか奇妙なところ。引きのショットから段々と宮松の表情に寄っていくラストショットにおいては何故か解放感や清々しさが勝っているように感じてしまった。劇中においてなにも解決はしないが、あくまで直接的な描写は避けられているし、何より唯一ほんの少しだけ(演じることなく)晴れやかな表情になる場面というのが効いてはいるのだろうが、それでもプライベートでの銀座のクラブの一件や、彼とは関係ないけれど統一教会絡みの一連の報道なんかも連想せずにはいられないほどの事件が絡んではいるのだ。そこには忘れるべきではない加害者性があり、ほとんど取り返しのつかない状態にもなっている。それでもあの終わり方によってもたらされる若干の風通しの良さは、おそらく自分の中での男性性や加害者性といった面で呼応してしまうものも少なからずあったからなのだろうな、と。

 「斬られてもまた立ち上がる宮松の如く、香川照之 will be back」と思わず願ってしまうこの気持ちなんだかある意味、現代的?

「ファイブ・デビルズ」鑑賞後メモ

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 自分自身の中に宿る愛のような感情に酔いしれてしまっている瞬間がよくある気がする。誰かやなにかを好きだ、大切だと思う気持ち。それを愛だと考えるのはとても腑に落ちやすい思考の経路であるし、なんだか気持ちがいいものだとも思う。しかし、落ち着いてよく考えてみれば結局それはただの強いエゴでしかない場合も多く、少し冷たい言い方をすれば即ちそれは支配欲なのだろう。狭いカゴの中に小鳥を押し込めるように、都合の良い場所に置いておきたいという欲望を美化しすぎるのはとても危険なことでもあり、思い通りにいかない物事に対して暴力的な手段を行使するほどに人を盲目的にすることだってあるだろう。脆く儚いものを包み込む優しさはそこでは忘れ去られてしまう。

 レア・ミシウス監督による「ファイブ・デビルズ」の本編冒頭、燃えさかる炎から振り返り観客側に向けられるジョアンヌ(アデル・エグザルコプロス)の視線は行き着く場がないまま宙に投げ出される。この時点でジョアンヌと観客側の思いとがすでにすれ違っていることを感じさせるような演出にもなっている。互いに一方通行な感情をぶつけ合ってしまった故に生じたイビツな現実、人間関係。それらの象徴としてヴィッキー(サリー・ドラメ)が存在しているような、少なくとも最初はそんな印象を受ける。しかしそれでも彼女は母であるジョアンヌに惜しげもなく愛情を示し続ける。三匹の小鳥が入れられた鳥籠や「香り」を収集したビンがヴィッキーの愛の形を示すモチーフとして機能していて、序盤でのそれはやはり支配欲としての側面が大きい。ジュリア(スワラ・エマティ)が登場してからそれはより露骨な形で立ち現れるようになる。

 ヴィッキーは特殊な嗅覚によって母の過去の記憶に入り込めるようになることで、自らの存在や家族のルーツに向かいあうことになっていく。どのようにして自分がいま生きている世界が築かれたのか、そもそもどうして自分は生まれたのかという実存的な問いを自然と探求していくような状況に彼女は置かれる。そして物語が後半に差し掛かると、この作品が「愛」という感情は他人に寄り添うような、その人を自由にしてあげられるような形になり得るのかというテーマを持つものでもあるということが明確になっていく。それは主にヴィッキーとジュリア、ジョアンヌらの関係性の変化によって示されるが、終盤の救急車が登場する展開においてはジミーがそれに乗車するのを拒むというアクションが挟まれることで男性性の向かいうる別の可能性のようなものまで提示される。ちなみに劇中で2回ほどタクシーと救急車のルーフ上に置かれたカメラによるショットが映されるが、作品を最後まで鑑賞してから振り返るとあれらも男性性の主観的ないし近視眼的な側面を象徴するものであったのかもしれないと思えた。

 舞台となる村の名前、主要登場人物の人数やヴィッキーが過去に戻る回数など「ファイブ・デビルズ」という謎めいたタイトルにはいくつもの意味合いが折り重なっているのだろうけれど、少なくとも主観性の強い支配欲的な感情を悪魔になぞらえていることは間違いないと思う。その感情に違う角度から光を当てることで新たな視点を導入すること、そして他者をこの世界から少しだけ自由にしてあげられる仕草について知ることでひとは真っ直ぐに自分を見つめ返してくれる「まなざし」の存在を近くに感じられるようになるのかもしれない。

 最後に、パンフレットに記載されたレア・ミシウス監督へのインタビューでの印象的なフレーズを書き残しておこうと思う。(ele-kingでの三田格氏のレビューでも引用されていたけれど…)

 

 「失われた時間を取り戻せないとしても、私たちにはまだ選択肢がある。物事は何も決まっていない。私たちは行動を起こすことができるのです」

「ある男」鑑賞後メモ

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 他人の過去の話はどうしてどれも面白そうに聞こえるのだろうか。自分自身の過去にはいくら思い出そうとしても特にパッとしたエピソードがなくてひどく味気ない。ほとんどの場合において実は他人の方が自分より豊富な経験を積んでいたり苦労しているような感じがあるし、なんとなくきれいに筋が通っているようにも思えてしまう。だからそういう誰かの生きた道筋を自分のそれと勝手に重ね合わせて、それをあたかも自分自身の物語のように誰かに語ってみせたくなる。少なくとも自分の中にはそういう欲望を感じることはしばしばあり、実際に似たようなことは何度かしている気がする。どうしてそのようなことをするのか。なんだかその方がきまりがいいというか、わかりやすくもなるので話を面白くし易いというのはひとつある。実際の自分の過去というのはなかなかシュールというか、あらゆる行動の動機のようなものが上手く説明しづらいのだ。そこにはおそらく恥ずかしさや後ろめたさが多分にあって、きちんとそこに焦点を合わせることが出来ていない、もしくはそうする気がないのだろう。自分の中の薄暗い部分を後ろ手にそっとしまい込んで、もう少し見栄えのいいものを表面にトレースしていく。そうやってつまらない面子を保ってきたような、そんな気がする。

 石川慶監督の新作「ある男」は全編ヨーロピアン・ビスタサイズというフレームのサイズになっており、一般的な映画の画面よりも少し横幅が狭くなっている。これによって様々な登場人物の姿が折り重なることでひとつの物語が形成されていくような感覚がより強調されるような効果が生み出されている。インタビュー記事内においても「自画像に近いような作品」を石川慶監督自身がイメージしていたと発言されており、鑑賞後には冒頭のルネ・マグリット「複製禁止」の絵画のイメージも頭にこびりついて離れなくなる。

 城戸(妻夫木聡)が「ある男」に対して強烈に惹かれてしまったのは、出自や境遇は違えどそこに同じような孤独や痛みを感じられたからであろうし、そういった「ある男」の肖像から反射されたイメージによって城戸は自身の中にある「触れざる領域」に触れることが出来たのだと思う。誰かの人生のひとつの側面が自分自身の心に強烈に突き刺さってくる瞬間は確かにあって、その破片をひとつずつ組み合わせていくことで「自我」という肖像を形作っている。そしてふとしたタイミングでその全てに嫌気が差したとき、全く違う誰かのイメージをその上にまたトレースしていく。つまりこの作品は「生き直す」ということについての物語でもあるのだろう。その機会を与えてくれる他者に対して「ある男」のように過去の過ちをそこにトレースし、かつて自身が求めていた優しさをそこに注いでみせることで新たな道筋を切り開いていく。そんなひとつの希望のイメージがこの作品に込められているように感じられた。個人的にも後半以降の「ある男」の過去やそこに登場する柳沢(カトウシンスケ)や茜(河合優美)らの存在感、そして窪田正孝の演技が特に印象的で後を引く味わいになっている。こういうのには弱いので、やられた。

 横幅が狭い画面のアスペクト比を採用しているが、冒頭の文具店での里枝(安藤サクラ)らのやりとりの場面から構図や演出が冴え渡っていてそれが最後まで心地よかった。この記憶を何度でも反芻しながら、少しずつ生き直していきたい。そんなことを思いながら、コロナ感染後の療養期間を終えたばかりのグニャグニャの脳みそを回転させてこの文章を書いた。

「Arc アーク」鑑賞後メモ

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 死への恐怖がひとを創作という行為に向かわせる、というとなんだかやたらとしんどい感じにはなってしまうだろうけれど、マイク・フラナガンによる「真夜中のミサ」や「ミッドナイトクラブ」なんかはまさにそういう物語であったと思う。死ぬ前に何をするか、単純に言えばそういう内容だ。計り知れない恐怖に対抗するために人は飯を食ったり運動してみたり誰かを愛してみたり、まあ、色々やってみせるわけだけど、その中でも創作という行為に力を注ぐ人もいる。自らが抱えるものを物語に昇華することで恐れや悩みを相対化してしまい、苦難を乗り切る。その恐怖自体がそっくりそのまま無くなるわけではないが、家のなかにいつもおいてある家具の中のひとつのような存在になっていくというか、そういう感じだろうか。自分を構成するパーツのひとつとしてそれを受け入れてしまえるような包容力が、創作という行為にはあるのかもしれない。

 だとすると、創作とは、見えないもの、手には触れられないものに触れようとする試みとも言えるだろうか。自分や他者の感情や記憶、失ってしまった大切なものなど直接手に触れられないものは多い。というか、本当に大切なものに限って驚くほど儚くて脆くて、触れさせてはもらえない。近いけれど遠い、その奇妙な間隔を飛び越えるほどの飛距離を生み出せるような装置を、しかし、先日ひとつ見つけてしまったかもなという気持ちにさせてくれた作品が石川慶監督の2021年公開作である「Arc アーク」だった。

 原作自体はケン・リュウという中国の作家の短編小説で、そちらは未読。しかしこの映画を見る限りでは、作品内に登場する「ボディワークス」や「プラスティネーション」といった概念はどれも映画という創作物の構造自体に言及するメタファーとして機能してもいる。見えないものを手繰り寄せようとする創作という行為を序盤の寺島しのぶが舞のような動作というか「サスペリア」的なビジュアルとして示してくれるのだが、あんな動きや装置をよく思いつけるなと感心せずにはいられなかった。あれに関してあまり具体的な説明がないこともよりその装置に対しての興味を掻き立ててくれた。血液を抜いて人工のプラスティックの液を血管に代わりに流し込むことで身体の腐敗を止め、その瞬間を半永久的に保存してしまうテクノロジー、というのはやはり映画や小説なんかの創作物と同じなわけで、同監督による前作「蜜蜂と遠雷」と比較してもより監督自身の映画に対する思想、価値観が鮮明に浮かび上がっている。

 とまあ、創作という行為についての物語ということでここまで書いているが、その他にもこの作品には様々なレイヤーがあるというか、正直ものすごい濃い内容になっていると思う。単純にSF作品というところがまずあって、そこに親子や夫婦といった家族の物語が進行していく。男性性と女性性についての現代的な視点による言及もされていて、男性はひたすら突き進んでいって何かを作り上げるがそのうちそれをほったらかしにする、女性はそれの受け皿のような役割を押し付けられているような構図が繰り返し示される。この構図をもとに主人公であるリナ(芳根京子)の人物造形を思い返してみると、彼女は「ほったらかしにする」男性性と「ほったらかしになったものを引き継いでより人間の肌感覚に添うようなところに落とし込む」女性性のどちらも持ち合わせているということに気づくこともできる。

 物語の中盤に不老不死の施術を自ら進んで受けるリナの心の深い部分にはずっと自身を許すことが出来ない感覚が存在していたはずで、つまりはこの作品の135年という長い時の流れは彼女の中で最も遠い -あるいは最も近い- その場所に触れるまでの途方もない飛距離だったのではないか。その円環の彼方で空に手を伸ばすショットを思い返しながら、そう感じた。